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March 28, 2004

「ゆとり」教育と伝言ゲーム

 「ゆとり」教育のおかげで学力低下だ、うんぬんという議論は、もうすでにいろんな人がさまざまな形で繰り返していて、教育に関心のある人にとっては、新味が無くてうんざりするトピックかもしれない。
 「振り子の議論」と呼ばれるように、子ども中心主義的な教育プランと、アカデミックな知識の伝達に力点を置いたプランの対立は、近代教育の歴史のなかで何度も繰り返されてきたもので、今回も似たようなもんだとクールに言い放つ人もいる。
 だが、教育課程(カリキュラム)の内容策定をめぐるこうした議論で、忘れられがちなことは、教育の営みが一種の「伝言ゲーム」だということではないか。バーンスティンというイギリスの教育社会学者によれば、教育的なコミュニケーションは必ず「知識の再文脈化」を伴うという。
 例えば、私たちは小学校で「算数」をならうが、それは数学を研究する人々が追求しているアカデミックな「数学」ではなく、それを初学者に分かりやすいかたちに編集しなおしたものである(中学校では「数学」を習うが、それもあくまでも学校数学である。バーンスティン自身は、技術科の学習は大工仕事とはちがう、という例をあげて、教育の再文脈化について説明している)。
 カリキュラムの内容が変わったことによって、子どもたちに様々な影響が生じる。それは正しいし、内容の変化を批評する視点は教育を語るときに不可欠である。だが、もう一方で忘れてはならないことは、そもそも、世の中にある無数の知識のなかで「伝えられるべき知識」がどのように選択され、どんな文脈で伝えられるのか、ということである。
 「伝言ゲーム」のたとえでいえば、メモに書かれた伝言の中身だけを問題にするのではなく、そこで書かれたメッセージがどのように伝えられたのか、元の文章のどこが強調され、どこがゆがめられ(あるいは省略された)のか、ということが、決定的に重要なのである。
 教育課程の編制は、学習指導要領が提示した基準にしたがって、各学校が定めることになっている。指導要領どおりにカリキュラムが組まれているかどうかのチェックは、都道府県・市町村の教育委員会が行う仕事である。つまり、学習指導要領というもっとも公的な教育内容についても、文部科学省→都道府県教委→市町村教委→各学校→担任教師→子どもたちと、様々なレベルで「伝言ゲーム」が行われているのである。
 大事なことは、「これからは「ゆとり」教育です」「いや、学力を重視しましょう」という「伝言」の内容だけではなく、それがどのように伝達されたのか、という伝言「ゲーム」のルールを把握することなのではないだろうか。
 (参考:バーンスティン『<教育>の社会学理論』法政大学出版局、2000年。この本はかなり難しいですが、教育を考えるためのさまざまな道具立てがつまっています。)

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