本田由紀さん『若者と仕事』のメモ
じぶんのためのメモです。
僕たちが何かを教え(教わり)、あるいは学ぶときに、教育者と学習者に介在し、両者をなかだちするものがある。黒板と教科書、壁掛け地図に人体模型。OHPで映し出された写真やグラフ、各種の辞書や副読本たち。
そんな学校らしいアイテムを想記するまでもなく、言葉や身振りを介さずにものごとを伝え・理解することの難しさを考えてみれば、あいだを取り持つ何かがなければ、教育という営みが成立しないことが分かるだろう。
ベンヤミンを手がかりに近代教育思想の可能性と限界を模索してきた教育研究者、今井康雄さんの『メディアの教育学』(東京大学出版会、2004年)は、「中間にあって作用するもの」(同書、p.1)としてのメディアに光をあて、「メディア自体の持つ『教育学』を教育学的考察のなかに組み込もうとする試み」(p.1)を示した本である。
橋本治さんの『勉強ができなくても恥ずかしくない』(ちくまプリマー新書、2005年。1〜3巻)を読む。
(おそらく)筆者自身をモデルにした「ケンタくん」が小学校に入学するところから物語はスタートする。もう小学生なんだからとおもちゃを捨てられ、勉強するための場所である小学校に入学するケンタくん。はじめてみる校庭の広さ、鉄棒の高さに驚きながら、これからはじまる小学校生活に不安と期待を感じるかれを待ち受けていた出来事は…。
結局のところ、学校とはどういう場所なのか。そこではじめて生活することになった子どもにとって、気がかりなことや嬉しいことは、いったいどんなことなのだろう。東京の下町、1950〜60年代ごろの学校生活と当時の社会の空気が、ケンタくんの目を借りて、くどいくらいに分かりやすくかみ砕かれたスタイルで提示される。同書を読み進めるにつれて、学校について思い浮かぶ素朴な疑問が次々に解消されてゆく。
読んでみて印象に残ったことは、ある時期まで(60年代くらいまで?)の子どもにとって、「進学する」ことや、「入学試験を受ける」ことの意味がかなり異なっていたことである。ケンタくんにとって、本来ならば私立中学受験対策の一環であるはずの模試は、学校での試験と違って範囲がとくに決まっていないので「楽」な試験であり、帰りに友達と鯛焼きを食べることができる社交の場であった。
こうした感受性が、下町の商家という出自に起因することなのか、教育の大衆化の途上にあるこの時期に生きる子どもたちに共通するできごとなのか、はたまた、自分の頭で愚直なまでに思考をつきつめてゆくという特異なパーソナリティーによるものなのかは定かではないが、ある時期までの学校生活の実像がリアルに感知される小説であることは確かである。そういう読み方をするのは邪道かもしれないが、50〜60年代の学校生活のリアリティ(もちろん、そこには橋本治的批評精神が通底しているのだけれど)をつかむために使える本だと思う。
でも、もしかすると「ケンタくん」は、いまの世にもいるのかもしれない。と感じさせるところに、おそらくこの本が橋本治によって書かれたことの意味があるのだろう。
教育関連のメールマガジンなどを読んでいると、あの街、この村、全国のいたるところで「学校選択制度」が導入される、あるいはその導入をめざした検討がスタートしたなどという記事に出くわす。あれって、いったいどうなんだろう?
大都市圏を中心に浸透しつつある学校選択制度、このしくみはいったいどういう性格をもつものなのだろうか。そこで想定されているメリットと、意図せぬリスクはどのようなものなのか。そんなことについて、本を読みながらつらつらと考えたことをメモ書きして、掲載してみました。
生煮えの思考をさらすのもどうかと思いますが、うだうだ考えてるだけじゃなく、他の人の目にふれる状態にしておくのも一興だと勝手に思ってるので、お読みになった奇特なかたは、コメントをつけていただくとありがたいです。
お久しぶりです。仕事に追われて(もはや常套句ですね)、更新が滞っていました。
芸がないですが、じぶんのためのメモ書きでお茶をにごします。芸もへったくれもなくて、すみません(誰にあやまってんだか)。
Recent Comments