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May 18, 2005

学校選択制度に関する覚え書き

 教育関連のメールマガジンなどを読んでいると、あの街、この村、全国のいたるところで「学校選択制度」が導入される、あるいはその導入をめざした検討がスタートしたなどという記事に出くわす。あれって、いったいどうなんだろう?


 大都市圏を中心に浸透しつつある学校選択制度、このしくみはいったいどういう性格をもつものなのだろうか。そこで想定されているメリットと、意図せぬリスクはどのようなものなのか。そんなことについて、本を読みながらつらつらと考えたことをメモ書きして、掲載してみました。

 生煮えの思考をさらすのもどうかと思いますが、うだうだ考えてるだけじゃなく、他の人の目にふれる状態にしておくのも一興だと勝手に思ってるので、お読みになった奇特なかたは、コメントをつけていただくとありがたいです。

○学校選択制度に関する覚え書き(by ebony)


1.この文章の(あるのかどうかよく分かんないけど)目的


(1)「学校選択制度」の基本的な性格と、いくつかの実現形態を紹介する。
(2)選択制がもたらすメリットと、それがはらむリスクについて検討する。


 こういう課題を設定すると、なかには選択制がもつ「メリット」を検討するという文言に違和感を持つ方がいるかもしれない。周知のとおり、学校選択制は格差の増大を引き起こし、公教育の存在意義を根底から掘り崩す手法として批判されることが多い。基本的には、ぼくもこの立場にたつ。

 だが、他方でこうした見解に反論し、同制度の積極的な導入を提唱する議論の中には、真摯に耳を傾ける必要がある論点が含まれている。さらに、保護者や地域住民の中には選択制度の支持者がかなりの割合で存在しており、この制度に人々の期待が寄せられていることも事実である。
 そこでこのメモでは、選択制度に反対の立場から制度の不備を裁断するスタンスを取らず、選択制のメリットとリスクとを比較考量しながら、議論を展開する。

2.学校選択制度の基本的な性格とそのバリエーション

 一般的に、広義の学校選択制度は「疑似市場」を用いた教育制度の再編手法と捉えられている。その基本的な性格は、市場メカニズムと同等の機能を果たす制度の力を借りて、教育サービスの需給関係を均衡させ、そのことを通じて、教育供給の効率化とサービスの質の向上をはかる点にある。
 学校選択制と一口にいっても、そこには様々な実現形態がある。経済的な市場との類似度を基準に、ぼくなりに整理したいくつかの類型を示してみよう。


(1)教育バウチャー制度
 教育バウチャー制度とは、公的機関が授業料の支払いを保証する教育切符(バウチャー)を発行・配布し、保護者がそれを自由に使うことで、私立学校を含むあらゆる学校を選択することを可能にする制度である。
 各学校は獲得したバウチャーに応じて行政機関から資金を獲得することになるので、公立・私立の垣根を越えた生徒の獲得競争とそれを通じた質の向上が生じるとされる。そこでの選択は、価格を通じた需給調整という市場メカニズムにもっとも近いかたちで機能する。

(2)通学区域の規制緩和・自由化
 公立学校の枠内で、保護者が自由に通学できる学校を選択することを可能にする制度で、現在の日本で導入されつつある様々な学校選択制度は、このカテゴリーに区分することができる。狭義の「学校選択制度」といって良い。
 多数の選択肢からニーズにあった学校を選ぶことができる点は、市場に近い仕組みが導入されているといえるが、貨幣に相当する媒介物による調整機構が重視されているわけではない。ここでは「選択される・されない」ということを学校評価のシグナルとして読み替えることを通じて、公立学校群間の競争関係を喚起することが企図されている。
 ただし、この制度においても、在籍する生徒数に応じて教育予算を配分する形で運用すれば、バウチャー制に類似した制度になる。また、この点を強調する自治体は皆無だが、選択を通じた統廃合の推進という、この制度がもたらす恐れのある帰結の一つも、「市場による淘汰」を想記させる点でバウチャー制を支えるものに近い論理といえよう。
 逆に、いくつかの自治体で喧伝されているように、「特色ある学校づくり」を強調すれば、これから紹介する「自律的経営にもとづく実験学校」に近いものとなる。
 いずれにせよ、通学区域の規制緩和・自由化は、どのような目的のもとで選択という手法を用いるのかで、その性格を異にする。

(3)自律的経営にもとづく実験的学校
 教育行政機構から一定程度の自律性を有した学校を設立し、既存の公教育では見られない実験的な教育を行う方式で、そこでの選択は、第一義的には、保護者が新しい試みに賛同する、あるいは実際に参画するかどうかを問うための手段として位置づけられている。市場メカニズムとの関連で言えば、そこでは経済効率性の追求よりも、むしろ教育方法・内容の多様化が企図されており、市場がもつイノベーション機能を重視した仕組みとして整理することができる。
 この種の試みの先駆的な事例としては、1960年代以降に欧米を中心に展開したオルタナティブ・スクール運動や、アメリカで人種融合政策の一環として導入されたマグネット・スクールなどがあげられる。
 こうした制度のなかで、近年(でもないか…)日本で着目されているものが、自前の学校を設立したいと考える保護者や地域住民、教師など有志を募り、学校設置・運営の認可(チャーター)を得て設立される公設民営のチャーター・スクールである。この学校設立・運営方式は90年代初頭のアメリカで登場し、急速に普及拡大した。チャーター・スクールは、後述する「コミュニティ・スクール」のモデルとなったともいわれる。
 なお、ここで「民営」の意味を広くとれば、独自の教育サービスで顧客に訴求する企業立の学校もこのカテゴリーに含むことができる。 この点に関して、日本では2004年から、保護者や地域住民が学校運営に参画する「コミュニティ・スクール」の設立が制度的に可能になった。また、同年にはいわゆる「構造改革特区」制度の適用をうけ、株式会社が経営する中学校も設立されている。
 この種の制度においては、単にできあがった学校を保護者たちが選択するだけではなく、学校づくりに関わる人々(そこには教師たちも含まれる)が自らの理念に沿った教育活動を選択する側面があることは特記すべき点である。学校選択制度の導入が検討される場合には、子ども・保護者が学校を選ぶ側面が強調されがちであるが、制度の設計のいかんによっては、教師たちが自らの勤務する学校を選ぶということも可能である。

3.学校選択制度の利点と危険性

 学校選択制度には様々なバリエーションがあり、その目的も様々であった。本来ならば、これらをひとくくりにして論じることはできないが、ひとまずここでは賛成・反対論者の主張をもとに、この制度が有する利点と危険性を簡潔にまとめてみる。


(1)学校選択制度がもつ可能性

 賛成論者が提示する選択制度の利点を端的に示せば、市場に準じたメカニズムを利用することで、教育サービスの質の向上、多様化、効率性の増大がもたらされるということになるだろう。こうした主張が、この制度に賛同する論者に共通する見解である。
 これまで述べてきたように、学校選択制度の導入は、教育を提供する諸制度に加えられた様々な規制を緩和することと結びついていた。そこで期待されていることは、学校教育制度に関わる当事者たちの利害関係をあらかじめ定めた規制でコントロールするのではなく、各人の自由な選択を通じて最適なかたちに均衡させてゆくことである。ある意味で学校選択制度は、教育の内容と方法を、市場に準じた制度から得られる情報をもとに、事後的に確定してゆく手法と見ることができる。
 そのように見たときに、学校選択制度には、これまでの教育制度では充分に果たすことがでなかった課題に応えうる側面がある。同制度がもつ可能性について、ここでは二つを指摘しておきたい。
 第一に、そこには従来の教育で不利な状況に追いやられてきた人々の声を「教育ニーズ」として真摯に受けとめ・応答する回路がある。
 例えば、さまざまな理由で不登校となった子どもたちのなかに、現存の教育制度の枠外にある「フリースクール」や「居場所」を選択する者がいるが、こうした民間の支援組織の多くは財政的な基盤が弱く、熱意ある関係者の献身によってようやく維持されているのが現状である。
 教育バウチャー制度や自律的経営にもとづく実験的学校の設立は、これらの組織に公的な財源による安定した基盤を提供する可能性を持つ手法である。不登校支援機関の関係者に、学校選択制度に期待を寄せる者が一定数存在する理由は、そこにある。マグネット・スクールやチャーター・スクールの多くが、マイノリティ支援政策の一環として行われたという歴史的な経緯は、学校選択制度が必ずしも社会的弱者の周辺化・排除をもたらすとは限らず、逆にかれらを支援するための有効な手段として機能する可能性を示唆している。
 第二に、保護者・子どもによる選択という手法が、個々の学校をこれまでのあり方の問い直しと改善に向けて動かす強力な誘因をもたらす点を指摘できる。
 「選択する」という行為を介した子どもや保護者の直接・間接の要求は、これまでよりも学校を動かす力を持っている。選択制度を先行して導入した自治体では、「選ばれなかった学校」が、教育実践の見直しと改善を否応無しに迫られる事例が見られる。こうした動向を手放しで賞賛することはできないが、選択制度が外部から学校に寄せられる様々な要求を顕在化させ、それに対して責任ある応答を迫る力を持つことも確かである。
 

(2)学校選択制の危険性

 次に、学校選択制が有するリスクについて述べることにしよう。


○一元的な基準による学校間格差の増大

 第一に指摘できることは、この制度には、望ましい教育内容や方法に関する判断基準の一元化をもたらし、それによって「うまく行く学校」と「失敗した学校」が分極化する危険性があることである。
 どういうことか、もう少し具体的に述べてみたい。多様なサービスの提供という制度構想者の意図に反して、保護者による学校選択の基準は、受験学力を首尾良く獲得することができるかといったアカデミックな学業達成に関することがらや、「荒れ」や「いじめ」の有無、ないしは通学路の距離や安全性などの、安全・安心に関わることがらに収斂しがちである。そうすると、「特色ある学校による多様な実践の展開」という制度が意図した展開とは逆に、保護者や生徒の人気を獲得するために、各学校が同じゴールをめざして似たような活動に邁進する可能性がある。学校が有する人的・物的資源は一律ではないために、おなじ基準のもとで競い合うと、どうしても学校間の序列が生じてしまう。そのうえ、(これはまだ日本では実施されていないが)人々の選択に応じて資源を傾斜的に配分すれば、序列で高いポジションに位置する学校はより高度なパフォーマンスを示すことが可能となる反面、選ばれなかった学校はじり貧のまま、序列の下位から脱却することが難しくなる。
 そもそも、市場メカニズムが作動するためには、貨幣という媒体を用いて一元的な基準で価値を比較考量することが可能であるという前提がある。それを踏まえれば、市場化が教育の多様性を約束するというビジョンは、あまりにもナイーブではないか。
 様々な論者が指摘するように、これまでの日本の教育制度は、「学歴」あるいは「成績」などといった、アカデミックな学業達成を表示する媒体による一元的な価値序列によって秩序づけられてきた。このような土壌のある教育制度に、学校選択制を導入すると、既存の一元的な価値序列がこれまで以上に強化される危険性がある。


○「公共財」としての教育の解体

 第二に、市場に準じた制度を構想する学校選択制度が、学校のもつ「公共財」としての側面を捨象する傾向を指摘できる。教育の経済学的研究が指摘するように、教育制度を利用することで諸個人が獲得する知識や技能は、それを獲得した者にとっての利益をもたらす私的な財としての性格を持つ。
 だが、他方で、教育制度は道路や公園のように、あらゆる人がアクセス可能であり、社会全体に公益をもたらす公共財としての側面を有している。教育によって、読み書きができる人間が増えること、他者の権利を侵害せずに共存するための規範を内面化した人間が増えること、あるいは適切な政治的判断力を持つ有権者が育つことは、特定の人間に限定されない社会全体の利益である。
 ところが、先ほども述べたように、学校選択制においては、「消費者」の私的なニーズを最大限に満たすことを過度に強調する傾向がある。この主張を極端につきつめると、社会全体の利益を損なうとしても、教育の受け手が満足しさえすれば、どのような内容・方法を提示しても良いということになる。学校選択制度批判の論点として提示されることの多い「階層の分極化」も、私事としての教育が重視されることで、近代公教育制度の原理的な価値である公正さや平等性が損なわれているという批判として理解することができる。
 学校選択制度の導入は、選ばれる学校とそうでない学校を産み出すとともに、適切な選択が可能な社会的条件を有した「選ぶことができる人々」とそのような条件を欠いた「選べない人々」とを区分することでもある。階層の分断を含めた教育の公益性の解体の危険性は、看過してはならない論点である。

○教育の計画性・目的性の軽視

 第三に、学校選択制度は、教育という営みが本来的に有する計画性・目的性と相反する側面がある。選択制度の利点について述べたときに、この制度は市場の情報を得ながら「事後的に」教育の内容と方法とを確定してゆく手法だと述べた。これはある意味で、特定の理念や目的をあらかじめ設定し、いわば次世代の望ましい社会のデザインを踏まえたうえで意図的・計画的に人間を社会化してゆく教育の営みが展開するプロセスを逆転させるものである。つまり、意図・計画→教育という筋道ではなく、(市場からの情報)→意図・計画→教育という逆立ちした論理がそこで展開する可能性がある。
 そのこと自体の評価は分かれるかもしれないが、近代公教育の基本的な原理の一つである社会的な計画性と相反する原理を選択制度は胚胎している。選択制度の展開しだいでは、この試みが公教育の放棄・解体につながる危険性があるのである。



4.学校選択制度をどのように評価するか。

 学校選択制度がもつ可能性とリスクを踏まえたうえで、ぼくなりの評価を示してみよう。

○意図せぬ結果をふせぐための仕掛けの必要性

 第一に、先ほど指摘した制度の危険性を軽減させるなんらかの手だてを考案しない限り、選択制の導入は避けるべきである。その具体例としては次のようなものがあるだろう。

 ①「選択されなかった」学校を、より手厚くサポートする仕組みを用意する。

 ②教育方法や内容について、各学校で独自性を出すことができる部分と、あらゆる学校が、公教育として共通に保障すべき部分とをあらかじめ定めておく(そこではあえて「学力の向上」は特色づくりに含めない、という選択肢もあり得る)。

 ③社会経済的に不利な立場にいる人々の選択を優先するなど、逆差別的に「選択」行為をサポートする仕組みを定める。

 これらは一例に過ぎないが、選択がもたらす意図せぬ帰結を防ぐための方策が打ち出せない自治体は、選択制を導入すべきではない。

○学校選択以外の手法はないのか?

 次に、学校選択制度に対するオルタナティブとして提示される改革手法の一つに、学校運営への地域住民・保護者・子どもの参画がある。選択制のメリットとされていたことがらは、こうした他の方法によっても充分に達成することができる。同じような機能を果たす他の手法があれば、それを用いた方が良いというのが、ぼくの第二の主張である。

○でも、学校選択も捨てがたい…。 
ただし、「参加」も教育改革の万能薬ではない。この手法も選択制と同様に、学校に参加する様々な諸主体の主張を参照することによって、事後的に望ましい教育のあり方を探る方法であり、教育の意図性・計画性と相反する点がある。
 また、欧米の研究では、学校運営に積極的に参加する社会集団は社会経済上の地位が相対的に高い傾向があることが指摘されており、学校への参加を喚起することが、民主的な学校運営を可能にするとは限らない。一般的に、組織体の管理・運営に参加するには多大なコストが必要であり、学校に関わる全ての人間が、参加に必要なコストを等しく負担することは不可能である。この点については、市場メカニズムを活用する選択制度のほうが、効率的で特定利害に偏らない意志決定を可能にするかもしれない。様々な理由で関わることができない(あるいは関わりたくない)が、学校に対して言いたいことがある人々の声に耳を傾けるための手法を学校参加は用意することが難しいのである。

○「市場」と「参加」は、二項対立的な図式なのか?

 学校選択制度を完全に否定しきることができない理由はそこにある。市場的なメカニズムを一定程度コントロールすることができれば、選択制度の導入は、公共性を担保しつつ、社会の新しい課題に柔軟に応えることができるように教育制度を再編する起爆剤となる可能性がある。
 ドイツの社会学者、ルーマンが指摘するように、社会学的な視点からみると、市場も一つのコミュニケーション・システムである。特定のサービスを「選択する」という行為は、ある種の社会的なコミュニケーションへの参加として見ることもできる。その意味で学校選択制度は、市場的なチャンネルを介した社会的コミュニケーションがそこで生起する制度でもある。
 学校選択制度をめぐる議論には、教育の受け手を「消費者」として捉える見方を強調するものが多い。だが、よく考えてみると選択するという行為には、「消費としての選択」と不可分の形で「参加としての選択」という側面が含まれているように思われる。例えば、投票による選挙制度は、政治的な参加のあり方を、選択という手法を通じて制度化したものである。それを敷衍すれば、学校を選ぶという行為には、単なる消費として矮小化できない部分があることが明らかになる。学校選択を教育の市場化論として批判する人々には、こうした視点が弱いように思われる。

 学校選択制度の諸形態を紹介するなかで述べたように、学校を選ぶということは、特定の教育理念や方法に同意を示し、あるいは自らもその実現に関わることを表明する側面が含まれている。「選ばれる」あるいは「選ばれない」ことが、学校に変化を迫るその力の背後には、コミュニケーションとしての選択、さらに言えば参加としての選択の持つ遂行的な作用があるのではないだろうか。ぼくは、学校選択制に可能性があるとすれば、選択のもつこのような側面をさらに検討してゆく必要があると考えている。この点についてのさらなる議論は、他日を期したい。

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 なんだかオチのないメモですが、ひとまず考えたことをさらしておきます。最後までお読みになった方(いないと思いますが)、ありがとうございます。

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Comments

 こんばんは。コメントありがとうございました。最近は更新頻度ががっくり落ちてしまったこのサイトですが、できる範囲でこれから続けてゆきたいと思います。

 学校から地域への情報の伝達・伝達が課題だというご指摘はそのとおりだと思います。

 学校の試みをなるべく具体的に提示し、その意図をきちんと理解してもらうことは、学校を評価する基準が一元化してしまうことへの歯止めになるかもしれませんね。

 というのも、現場での実践は、個別学校のローカルな文脈のなかで起きていることで、そこには抽象的・一般的な基準に収斂されない雑多さが含まれているように思うからです。

 個々の学校、それぞれの事情を提示して分かってもらうのは、選択制のリスクを軽減する有効な戦略かもしれません。

 ただ、選択制を導入した地域で、大きな変動が起きるときによくある理由の一つに、地域の「風評」があることは気になるところです。例えば、先行的に選択制(正確には通学区域の弾力化)を実施した足立区では「同じ学区の小学校から、札付きのワルが中学に入学する」とか、「あそこは荒れているらしい」といった噂によって、たくさんの人が別な学校を選択する、というケースが、みられたようです。

 そうすると、obaさんが最後に書いているように、情報を受容する側の論理─地域コミュニティのあり方─が重要になってくるということになるように思います。

 こちらもまとまりがないですが。

Posted by: ebony | May 23, 2005 11:59 PM

いつも(気長に)更新を楽しみにしています。

学校選択制については、まったく知識がないのですが、このエントリーを読んでいて、選択のための情報がどのように地域の中で共有されるのか、というのも、一つの課題ではないか、という気がしました。

なんとなく、口コミが一番力があるような気がするのですが、だとすると、一度できあがった評判から脱出するのは結構難しそうです。
学校側が、新しい試みをしようとしたとき、それが選択する側にうまく伝わる回路がないと、選択制の利点がうまく働かないのではないでしょうか。
そういう意味では、学校選択制がうまく機能するかどうかは、地域コミュニティのあり方と密接に関係するのかもしれません。

単なる感想ですが……。

Posted by: oba | May 22, 2005 10:31 PM

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