本田由紀さん『若者と仕事』のメモ
じぶんのためのメモです。
○本田さんの議論に感じた違和感
前回紹介した今井さんの本を読んで感じたことなのだけれど、本田さんの議論は、今井さんの枠組みで言えば、教育の直接性、あるいは透明なメディアを前提にした(あるいはそれをめざした)ものになっているような気がする。
特に、職業的なレリバンスを強めたかたちで学校で伝えられる知識・技術を再編しようという提言などを見ていると、そのようなことを感じてしまう。
だから良い、悪いということではないのだけれど、教育的コミュニケーションのもつ不確実性を可能な限り縮減しようという意図がもつ逆機能はないのだろうか、という疑問がどうしても残ってしまう。
これはミネルヴァ書房の『教育評価を考える』(だっけ? うろ覚えです)に収録された教育評価に関する論文を見たときにも感じたこと。本田さんは、ルーマンの社会システム理論を、自らの研究の理論的な枠組みの一つに位置づけているので、本人は否定するかもしれない。しかし、彼女の議論には、透明なコミュニケーションへの欲望が伏在している感じがする、のは僕の理解不足なのだろうか。
もう少しこの点について考えてみる必要があるだろう。


Comments
>本田さん
コメント、ありがとうございました。著者ご本人から直接応答をいただくことができて、嬉しく思います(このサイトは、じぶんとしては私的な読書メモをひっそり掲載しているページだと思っていたので、ちょっとびっくりしました。もちろんwebは誰にでも開かれているわけですけれど…)。
ご指摘のとおり、国民の税金によって運営されている公教育制度が「資源に見合うアカウンタビリティ」を求められていること、そのため「本来不透明な教育的コミュニケーションをできる限り透明にしてゆく試み」が不可欠であることは、まったくそのとおりだと思います。
また、教育制度の担い手である学校は、そもそも脱連結を特徴とするルーズな組織なので、厳密な評価を行うことで、教育の効果をきちんと測定─社会的に構成─することが必要であることも、同意します。
ただ、少なくともぼくの個人的な経験のなかでは、教育システムの不透明性に救われてきたところもあるので、教育的なコミュニケーションの曖昧さ・不透明性のもつ独自の意味についてもう少し考えてみたい、という気持ちがあります。
ちょっとうまく言えないのですが、ある事柄について教育を受ける場合に、「その時は意義が見えなかったけれど、後からふり返ったときにはじめてその意義を体感することができた」というようなことや、「教育する側の意図とは違うかたちで、じぶんなりに勝手な意味づけを行うなかで、教育的なコミュニケーションに関与する」ことによって生起する意味というものがあって、こうしたことがらが、それなりに有効に機能するということもあるのではないか、と思うのです。
もちろんそれは、教育する側があらかじめレリバンスの高いかたちで知識を提示しても生じることなのですが、こうした副次効果? が生じるのに最適な幅というものがあるような気がするわけです。
また、話は変わりますが、森田洋司さんが『「不登校」現象の社会学』の3章でマートンに言及しながら議論を展開しているように、過度の可視性が集団に対して逆機能的に作用するということもあるように思います。透明なコミュニケーションが遍在することの息苦しさ、ということについても、考える必要はないのでしょうか。
この点について、例えば、『若者と仕事』の6章で、「まずは高校段階という比較的保護された環境のもとで、最初の重要な自己定義と将来像の選択を(中略)強制する」(p.202)ことの有効性が主張されていますが、こうした処方箋が、その意図するところである自己を再定義する柔軟性の育成につながるのではなく、「専門分野という共通性」(同)への固執や、社会との関わりのなかで自己を位置づけること自体からの退却を促してしまうというリスクもあるように思います。うーん、あまり適切でない捉え方かもしれませんが…。
匿名サイトで、前回の記事では具体的な言及もなしに印象だけを書いているので、もしかするとお気を悪くされたかもしれません。文字ベースのコミュニケーションなので、舌足らずな表現や、誤解を招く部分があるかもしれません。その点、ご容赦いただければ幸いです。せっかくご本人からコメントをいただけたので、いろいろと思いつくままに感想を書き散らしてしまいました。
もう少し余裕がでたら、テキストに内在したコメントを寄せてみたいと思います。それでは、また。
(追記)
書いていて気づいたのですが、「日本は(教育システムやそこで生じるコミュニケーションが)が不透明すぎる」ので、透明性を高めなければならないということへの反論にはなってないですね。これについては、いただいたコメントを読んで「そうかもしれない…」と感じました。うーん。もう少し考えてみます。
Posted by: ebony | June 13, 2005 at 12:02 PM
確かにそうかもしれません。でも学校教育制度が、それにつぎ込まれた資源に見合うアカウンタビリティを果たすためには、本来不透明な教育的コミュニケーションをできる限り透明にしてゆく試みは不可欠なのではないでしょうか。特に日本は不透明すぎるので。不透明であることは、学習者にとってある種の自由の余地を確保しますが、教育システムがずるずるなあなあのままで存続し続ける余地をも膨大に残します。そしてその中ですさんでゆく子供や若者も多いと思うのです。「もうちょっとちゃんとしようよ!」というのが正直な実感です。
Posted by: 本田由紀 | June 12, 2005 at 01:59 AM