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July 15, 2005

地元で生きる、ということ。

 お久しぶりです(誰に向かって言っているのやら)。最近、忙しさと夏風邪にやられて更新が滞っていましたが、感想と励ましのメールをいただき、重い腰をあげることにしました(単純ですね)。

 それはさておき、少しだけじぶんの昔話をさせてください。僕は地方の出身で、学生時代を東京で過ごしていたのですが、上京してしばらくのあいだ、出身県関連の財団が運営していた寮に住んでました。

 そこは県のカラーがむちゃくちゃ濃い寮で、休憩室のテーブルには寮生の実家から送られてきた県産品のおすそわけが(ほぼ)常備され、ここに入った者は、我が県のシンボルともいうべき伝統芸能を習得しなければならない、という暗黙のルールまであったのでした。

 風呂・トイレ共有、掃除当番あり、2食昼寝つき・格安家賃・飲み会多数のこの寮、地方から身一つで花の都・大東京にやってきた僕にとっては、かなり居心地のよいところでした。しかし、残念なことに通っている学校から遠く、電車通学に嫌気がさして半年くらいで引っ越すことに。なかば仮住まいといった感じでしたが、そこで遭遇した人々はいまでも印象に残っています。

 吉川徹さんの『学歴社会のローカル・トラック』世界思想社、2001年を読んだときに、まっさきに思い浮かんだのが、この寮での生活でした。地方からはるばる上京してきた寮生が、身を寄せ合って(というにはあまりにも騒々しい生活でしたが)一つ屋根の下で過ごす。東京の大学で学び、あれこれの経験を積んだあと、再び地元に帰ってゆく。ああ、そうか、あの寮で形成される過剰なまでの地元意識は、この本で言うところの「ローカル・トラック」の制御を試みる戦略がもたらしたものかもしれないな。

 と、そんなことを書いても、同書を読んだことがない人は何のことだか分からないと思うので、ちょっとだけ本文を引用してみよう。

 「ローカル・トラックとは、それぞれの地方の出身者が、アカデミックな進路選択とは別次元のものとして、自らの地域移動について選択してゆく進路の流れである」(p.223)
 
 吉川さんは、1992年度に島根県の山間部に位置する県立高校・国公立進学志望者クラスを卒業した生徒を対象にした調査を行い、かれらが18歳から24歳までの6年間をどのように過ごしたのかを、質問紙を用いたパネル調査と、ライフヒストリー・インタビューの手法を用いて分析している。その結果浮かび上がってきたのが、ある固有のパターンを有した地域移動のあり方である。

 地元に留まる/都市に向かうかどうか。いつ、どのようなタイミングで移動を行うのか。吉川さんによれば、こうした一見すると個人の選択に委ねられている出来事が、地方の教育県・島根においては、様々な制度的な仕組みによってコントロールされているという。

 そのなかでも、特に強調されていたのは、地元の高校(の進学クラス)─県内の国公立大というルートに教育資源を集中し、地域で役立つ「実学」的な学びへと生徒を水路づける戦略である。こうした仕組みによって産み出された経路が、「県内周流型」と名付けられたローカル・トラックである。

  「本書においては、ローカル・トラックの本流となっていたのは、県内郡部の高校で、『嫡出』エリートとして育てられ、県内のエリート職にまっすぐ向かう高等教育を県内で受け、実際に県内職を移動してゆく人材となる経路、すなわち県内周流である。この類型の若者たちは、大学入試の難易度ランク一辺倒の単純な判断ではなく、例えば県内の地元国公立大学に進学し、そのまま県内でで初職につくという地域移動のコース優先の判断で進路を決めていった集団である。」(p.223)

 こうした「地方のエリート」として地元かいわいで生活する生徒に加え、大学進学のために一度県外に移動し、その後再び地元に帰ってくる「Jターン型」(「J」の含意は、生まれ育った郡部に戻ることはないが、県内で就職していることを表現している)もまた、広い意味ではこの種の「県内周流」型のローカル・トラックに含まれる。

 「他方、県外に流出して一流大学の学校歴を得ながらも、卒業と同時に県内に戻る経路を取るJターン型についても、全国で通用する一流大学の学校歴を得ながらも、県外の労働市場には目を向けず、県内周流の経路に戻ってくるという、ノン・メリトクラティックな意志決定を指摘できる」(p.224)

 もちろん、進学クラスを卒業した生徒は必ず「県内周流」トラックに沿った人生行路を歩むわけではない。高等教育を受けた後も都市に定住するもの、あるいは逆に、自分の生まれた場所に戻り、そこで働く「Uターン」組と、当然ながら、同じクラスで過ごした生徒たちの卒業後の進路はさまざまで、「本流」以外のコースをたどった人も多い。

 移動の経路だけでなく、かれらがどのように自分の今の生活を形成してきたのか、その模索のありように目を向けると、これはもう、一人一人でまったく異なるライフヒストリーが展開することになる。「漂流記(ライフヒストリー)」と題した本書の第二部では、卒業した生徒たちのその後の6年間について、個別の聞き取りの成果が提示されており、場所こそ違うがほぼ同じ世代に属する地方出身者の僕にとっては、こちらの具体的な叙述が実に興味深く、魅力的だった。そうか、みんなはそんな風に過ごしていたのか。

この本で強調されているのは、かつて「村を捨てる学力」という言葉で警告されたような、アカデミックな学業達成を通じた(あるいはその獲得をめざした)地方から都市への移動とは違う論理が、進路選択の場で作用しているという事実である。その固有の力学を把握するために考案された分析概念が「ローカル・トラック」なのである。ただし、ローカル・トラックの本流に位置するかどうかを決めるのは、結局のところ学業達成である。本書ではこのあたりの関係の整理がやや不十分で、そこがちょっと惜しいところかもしれない。

 さらに、ここまで書いているうちに、「地元」や「地方」というもののあり方は、この本で描かれたような県内エリートたちにとってのもの以外にもさまざまであることに気づく。

 たとえば、首都圏で活動するストリート・ダンサーについて研究した新谷周平さんの論文のなかで指摘されている、「地元つながり文化」の存在がある。ここで言う「地元つながり文化」とは、出身中学やその近隣中学の先輩後輩関係を基盤としたサブカルチャーのことを意味するが、そこで時間・場所・金銭の共有を特徴とする原始共同体的な関係を支える「地元」の含意は、たぶん、吉川さんがインタビューを行った人々のそれとはまったく違うものだろう(新谷周平「ストリート・ダンスからフリーターへ」『教育社会学研究』第71集、2002年)。こうしたもう一つの「地元」の姿は、首都圏の若者だけではなく、地方で生きる若者たちにも共有されているものではないだろうか。異なる社会層による多様な地域・地元像を把握する、そのような続編を期待するのは僕だけであるまい。

 地方で生きてゆくこと、地方から出て、別の土地で暮らすこと。あるいは再び生まれた場所へ戻ってゆくこと。多くの人が経験するこうした出来事に、社会的な属性がどのような影響を及ぼしているのか。ある意味で都市で生きることの裏返しでもある地方の若者の生活について、いろんなことを考えさせられる本です。

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