『社会の教育システム』6章の要約メモ
こんにちは。おとといに自宅に戻ってきました。帰省で減退した勤労意欲の立て直しをはかるこのごろです。沖縄ではすっかりご無沙汰していた方と久々にお会いする機会があり、(良い意味で)以前と変わらずお元気な姿をみて、励まされる気がしました。
今回は、6章の要約メモをアップします。後半部分から抽象度が一層上がり、より難解になると感じるのは僕だけでしょうか。
それはさておき、そこで提示された理念や計画の善し悪しを抜きにして、いわゆる「教育改革」をぶちあげることが果たす社会的な機能を淡々と(でもないか)記述する後半部分がとくに興味深い箇所でした。
「どうせ外部の者に現場のことは分からないんだ」という教師のぼやきや、「昨日の敵は今日の友」とばかりにめまぐるしく変化する学校組織やカリキュラムは、教育の世界を知る人にとってはありふれたことがらかもしれません。
ところがルーマンさんは、これらの背景にある<教職のプロフェッション化><教育組織の改編>に、システムのパラドックスを隠蔽し、そのままでは空疎にすぎない「教育する意図」にある内実を付与する働きを見いだしています。教育学的な議論ではネガティブなことがらとして把握されがちな事象に、社会的な機能があることを発見するところに、ルーマンの議論の面白さ(と難しさ)があるように思います。
第六章 再特殊化──プロフェッションと組織
I <合理性>という一般的基準の断念(pp.197-199)
教育システムにおいて、個人の行為を合理性という一般的な基準で捉えることは不可能である。合理性は<合理的選択>と<理性的な合意>の二つの観念から成り立っているが、授業における教師と生徒の行為は、これらの基準にとって捉えることができない。
本章では、合理性という一般的な基準を(各機能システムに即したかたちで)再特殊化する仕組みに着目したい。全体社会における合理性の再特殊化メカニズムは、<組織>と<プロフェッション>である。
II <再特殊化>の端緒(pp.199-203)
伝達意図は教育システムのあらゆるコミュニケーションに当てはまるシンボルであるが、このシンボルは一般的であるがゆえに、具体的なコミュニケーションの内実を導くものではない。この問題を捉えるために有効な枠組みの一つに、パーソンズの包括化/再特殊化の図式がある。機能システムが分離するなかで、全体社会は<プロフェッション化>と<組織化>によって、包括的になった意味連関を再特殊化する。
もう一つの、再特殊化の可能性は、理念のレヴェル/実践のレヴェルの区別を用いることにある。理念のレヴェルはプロフェッション化に、実践のレヴェルは組織化に対応する。
学校が「国家的施設」となる歴史を振り返ると、学校が国家行政に依存して存立していることが明らかになる。そのため、われわれは、授業という相互行為システムの「<作動における自主性>」(p.203)から目をそらされる傾向にあるが、教育的コミュニケーションの再特殊化のあり方を捉えるために、授業が生起する領域に目を向けて、プロフェッション化と組織化について分析する必要がある。
III リスクに備える<プロフェッションへの帰属>(pp.203-210)
従来的なプロフェッションの社会学は、プロフェッションと個人の利益の最大化の区別を重視しており、プロフェッション/組織の区別は副次的なものであった。個人の利益の最大化という観点からすると、(専門)知識が重視されることになるが、知識の有無だけでプロフェッションを把握することはできない。
これに対して、システム理論はプロフェッションの特殊性を以下の点から把握する。
(1)専門的な介入の成否が不確かであるために、プロフェッションは自らの仕事の領分を囲い込む。
(2)プロフェッションが有する知識は、物事を達成する手段としてではなく、不確かな状況に対応できる様々な<型>を提供する役割を有している。
(3)プロフェッションが信奉する価値は、各専門領域で用いられる区別である。病気/健康、無教養/教養という区別を用いて、プロフェッションはクライエントに接する。
(4)プロフェッションの特殊性は、人格と役割の区別にある。「まさに教職の場合、教師の人格投入が方法論や技巧よりも重視される」(p.206)
・教職のプロフェッション化:18世紀後半に様々な改革要求が登場。
(1)「天職」としての教職概念の浸透
(2)教員会議による教育活動の統制
(3)教師の自律性の増大
(4)教職獲得へのインセンティブを確保する諸制度の導入。専門教育の出現
─→組織の問題は軽視される。
─→教職のプロフェッション化の度合いは、学校段階によって異なる。
(上級学校ほど、教職プロフェッションが重視されなくなる)
─→教職プロフェッションは、教師たちに「不確かさの下での仕事に取り組む心構えを用意させ、当該のプロフェッションにおいて通常の範囲で力を尽くしさえすればどんな非難も受けずにすむことを確信させるという、潜在的な機能を果たす」(p.209)
IV <階統的組織化>の限界(pp.210-215)
国家行政による全国民のための学校システムの整備は、組織の局面で生じる教育システムの再特殊化を推し進めていった(cf.学校と大学の差異化と学年制の導入)。
教育システムの諸組織は、教育計画(カリキュラム)によって<教育する意図>を再特殊化する。近代的な学校組織のカリキュラムにみられる同型性は、包括的な教育コミュニケーションの再特殊化がカリキュラムによって果たされていることを物語っている。だが、それを指摘するだけでは不十分で、実際にカリキュラムが果たす機能を明らかにしなければならない。授業という平凡でないマシーンを把握するためには、合理性原理にもとづく階統的な組織を前提とする旧来の組織論ではなく、システム論的な組織論が必要となる。
V <自己塑成的システム>としての組織(pp.215-223)
現代的な組織論の一つである制度学派の組織論は、価値や文化を重視することで、組織の理論と再特殊化の問題を混同しており、組織における再特殊化の問題を適切に取り扱うことができない。われわれは、両者を切り離したシステム論的な組織論を採用する。この理論は、自己の決定から決定を再生産する、すなわち、決定のコミュニケーションが連鎖するなかで自己を塑成するシステムとして組織を把握する。
学校組織は、時間割を決定し学校段階を分化させる(≒カリキュラムを決定する)ことによって、教育するという善き意図に形式を与える。授業という相互行為はそれ自身が組織システムとは別の次元で展開する自己塑成システムであるが、組織は授業システムの環境を縮減し、相互行為の背景を提供する役割を持っている。
教育システムにおける<善き意図>の再特殊化は、組織システムと、プロフェッション同士の/プロフェッションとクライエントとの相互作用の協力関係が不可欠である。とりわけ教育システムの組織においては、授業という相互作用システムが構造的に強力な地位を占めている。
VI 改革は改革を呼ぶ(pp.223-226)
プロフェッション(による相互作用)と組織によって<善き意図>が再特殊化されると、意図という一般的なシンボルに代わり、再特殊化により整序された領域の矛盾した諸要請に応える多種多様な教育イデオロギーが登場する(ex:機会均等の実現、階層や性による不平等の撤廃、学級の成績向上、遅れた者の向上など)。
教育は、イデオロギー間の矛盾に「絶えざる改革」を用いることで対応する。「再特殊化によって出現する諸矛盾の圧力は、<通常の作動>と<改革の努力>の共存によって緩和される。これによって、問題は時間の次元に移され、[同時ではなく]前後して現れる矛盾として無害化される」(p.226)


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