『社会の教育システム』2章の要約メモ
『社会の教育システム』第二章の概要です。個人的には、(あえて)生徒を<平凡なマシーン>として取り扱うことが、かれらの自己社会化を促進するという議論が興味深かったです。教育学的な議論で、「教え」と「学び」を対立的に捉える枠組みを乗り越える図式を提示しているような、していないような。「演技されたコンセンサス」の獲得という議論は、付け焼き刃でもいいので議論できるツールを獲得するという現代的な教養をめぐる議論とも通ずるような、そうでないような。
第二章 社会化と教育
Ⅰ 社会化における<作動の閉鎖性>と<構造連結>(pp.46-61)
「世代から世代への文化的価値の伝承」(p.55)という古典的な社会化論は、(1)社会化をする側とされる側とに構造的な非対称性を想定している、(2)伝承に成功した場合だけを社会化と捉える、(3)不確かさへの備えとして、規範遵守/個性的な自己意識の形成がありうるが、従来の社会化論では後者がうまく把握できない点で批判された。
パーソンズの「相互浸透」概念は、伝承理論を越える社会化の基礎づけとして有用であるが、行為の存立基盤を問うかれのシステム論は社会システムと心的システムとの峻別が不十分でないために、社会化が二つのシステムで別様な論理で引き受けられるという事態をうまく把握することができない。
閉鎖したシステムの構造連結・構造呼応という概念を用いることで、心的システムと社会システムとを峻別しつつ、両者が(社会システムから見たときには)「人格」を媒介に構造的に関係しあう様相を描くことができる。
→「社会化はつねに自己社会化」である/「社会化は、どんな社会的振舞いにも付いてまわる」
→それでは、教育と社会化はどのような関係にあるのか?(次節へ)
Ⅱ <教育する意図>による教育の定義(pp.62-70)
教育概念は、(従来の議論が試みてきたように)内容的に定義することができない(したとしても、別の立場から「それは教育的なのか?」と反駁される)。そこで、本書では、同語反復的な形式的定義を行う。社会システム論による教育の定義は、「相互行為において<教育する意図>を以て行われるコミュニケーション」(p.63)である。
「意図」による定義は、教育(意図的)/社会化(無意図的)という区別を行うことでもある。
→教育システムは、この区別を用いて、自己の論理にもとづくコミュニケーションを生起させる。
・教育システムによる脱トートロジー化:<教育する意図>の内実を規定する(トートロジーの空疎さを隠蔽する)構造要因
(1)役割の非対称性
(2)善き意図(/善くない意図)という図式の使用
(3)相互作用システム(授業)の利用
→<教育する意図>による教育の定義は、システムのまとまりが内部にも外部にも見いだせないというパラドックスを生起させる。このパラドックスは、「システムをシステム自身の決定不能から解放する外部の参照によって、解消される」(p.70)
Ⅲ <教育する意図>による伝達行為(pp.70-71)
・システム論による「伝達」概念の再記述
<教育する意図>によって生じたパラドックスの解消の道筋の一つに、「知識と能力がまだない者にこれを伝達しようとする行為」(p.70)において、教育する意図を認識する方法がある(その背景には「素質」概念がある「まだない」ものを「ある」ものにするというパラドックス)。
→伝達可能/伝達不能 というコードによって教育システムが作動する。
Ⅳ <家父による教育>から<教師による授業>へ(pp.71-74)
<教育する意図>は、いかなる社会にも存在するが、近代社会の到来(機能的に分化する社会の登場)にともない、<教育する意図>はますます重視されることになった。その変化は、<家父による教育>から<教師による授業>へ、という図式で示すことができる。ここで言う「意図」は心的システムのありようとは無関係で、社会システムが分化するプロセスで機能する(社会的なコミュニケーション)シンボルである。
・<教育する意図>が分出する背景:活版印刷の普及と、学ぶべき知識の量・複雑性の増大
・教育意図の担い手の変化:家父→家庭教師→ラテン語学校・学舎や大学(の担い手である教師たち)
→「教育者的意図とは、有り余るほどのコミュニケーション可能性を正当化できるような自律性を定式化したものである。だからこそ、こうなったいま、教育システムははじめて自己紀律を要請される」(p.73)
Ⅴ 教育と<選別>(p.74-85)
教育システムを他のシステムと分化させる<善き意図>は、教育と選別という「全く異なる二人の子」(p.74)を生み出した。教育論は選別を否定するが、選別は教育システムを階級的な秩序から切り離し、教育内の基準によって生徒を把握する手がかりをもたらす、すなわち、システム固有の記憶を形成する機能を有している。また、選別は、教育の対象となる者のキャリアを生み出す働きも持っている。これらを踏まえると、選別が教育システムに不可欠であることが明らかになる。
・選別が教育システムで果たす役割(pp.79-80)
(1)教育を社会階層から切り離す(しかし、統計は良家の子どもが選別で成功するチャンスに恵まれることを明らかにしている)
(2)選別はシステムの記憶を形成する。そのことで教育システムは、選別結果以外の他の様々な情報を忘却することが可能となる。
(3)上記の忘却は、生徒の人格に「別の人格になる可能性」を与える(p.80)
(4)選別のネットワークは、不確かさを生み出しつつ、評価決定」によってそれを一時的なものにする。
(5)選別が決定である以上、別様な結果が生じる可能性は避けられないが、この不確かさは選別のプロセスを時間的に引き延ばすことによって軽減される。
(6)選別は、決定プロセスの不透明性を基盤に、結果の透明性を得ている。
・選別批判論への応答
選別=権力行使/暴力行使と主張する論は、近代社会における教育システムの分離を見誤っている。
・教育のキャリア形成機能
<出自による社会的統合>から<キャリアによる社会的統合>の変化は、教育システム単独の作用によってもたらされたのではなく、社会が機能分化することによってもたらされた。このことは、教育システムと経済システムにおけるキャリア形成が、(構造的に呼応しつつも)別様な論理によって行われる点からも明らかである。
Ⅵ <パラドキシカルなコミュニケーション>(pp.85-91)
教育と選別の区別は、<より良い/より劣る>という二次的コード化をもたらした。このコードは、伝達可能/伝達不能という一次的コードを補完するものである。
教育における選別は、二次的コードを利用しながら、(成績)を決定し・比較するという二つの形式を統合する。選抜システムに複雑さをもたらすこうした作動が教育システムで生じる背景には、他の機能システムとことなり、教育システムではコード化とプログラミングが明確に区別されないという特殊な事情がある。
また、教育と選別の相互補完的な関係は、相互作用においては、<パラドキシカルなコミュニケーション>(教育的配慮と/(冷徹な?)成績符号の配分との分離・相克)をもたらすことになる。教育システムは、二つの相反するコミュニケーションを振動することによって、それぞれのコミュニケーションの欠陥を免れている。
Ⅶ <平凡でないマシーン>の平凡化?(pp.91-97)
<教育する意図>が<正しく教育する意図>を含意する場合、教育と選別の緊張関係を解消するために、教育システム(相互作用システムとしての授業)は、生徒を<平凡なマシーン>として取り扱う。教師が既知のことがらを生徒に質問するやりとりが、「平凡化が進んでいることをチェックする標準的な手続き」(p.93)である。
本来は平凡でないシステムである人間を平凡なマシーンとして取り扱う場合、かれらは自己組織化によってこれに対応し、あたかも平凡なマシーンのように振る舞うことを学習する。「教育のために編成された相互システムは、それ自体、社会化の作用をもつ」(p.95)。
・平凡なマシーンと平凡でないマシーン
前者は一定のインプットに基づき、一定のアウトプットを生み出すマシーン、後者は自照性を有し、予見不可能な多様な反応を返すマシーン≒オートポイエーシス・システムである。
・平凡化としての授業:IRE構造がその典型
→平凡なマシーンとして取り扱うことが、平凡でないマシーンの自己社会化作用を刺激することにつながる。
・「現状肯定的、機能主義的な議論」という批判への応答
教育の社会化機能は、上記の批判を行う者達が想定するように、社会秩序の追認だけにとどまらない。
「問題は何よりも、われわれは逸脱の文化をどれだけ手にしているのか、ということ」(p.97)
Ⅷ <演技されたコンセンサス>(pp.97-98)
複雑な社会における教育の機能は、真の認識を得ることでも合意の調達でもなく、「他人の頭のなかで起こっていることを思い描く可能性を増大させる」(p.97)ことにあるのではないか。「どんなに不確かでも、それに続くコミュニケーションを排除せず、可能にする枠のなかにとどまること」(p.98)、すなわち「演技されたコンセンサス」は、諸社会システムが存続するために必要不可欠であり、教育はこうした事態が標準的でない状況においても可能になることを実現する。


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