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October 12, 2006

『社会の教育システム』7章の要約メモ

 こんにちは。繁忙期に入り、続きの記事を投稿するのが遅れてしまいました。ルーマン本も、これで最終章です。社会システム理論の言葉で、教育的な事象を再記述することの意義が示される部分です。難解ですが、ルーマン理論を教育研究に応用する可能性を考えるうえで欠かせない章だと思いました(最後の節は、ルーマン的な「社会学的啓蒙」の意義を教育に即して繰り返し強調しているだけ、のようにも読めますが)。 

第七章 自己記述

 

I <差異の一体性>としてのシステム(pp.235-237)
 システムは作動に用いる区別を自らに適用することはできないが、システム/環境の差異を自己の内部に転写し、自らを記述することができる。本章の目的は、セカンドオーダーの観察者として教育システムの自己記述を把握することにある。教育システムの自己記述は、理念/実践の差異図式を用いて、高い理念を掲げることによってなされる。

 


II 旧ヨーロッパ的・身分制的な<自然への依拠>(pp.238-241)

 

 18世紀ごろまでの旧ヨーロッパ的な社会秩序(成層化された社会)においては、「自然」という概念を用いて教育を論じていた。洗練さが自然な振る舞いとして示されることが、階層的な秩序のもとでの教育の目的であった。機能分化したシステムへの移行は、自然概念の廃棄ではなく、そこに組み込まれる人々の対象範囲が拡大するなかで進行した。聖職者ではなくプロフェッショナルな職業教育を受けた教師を登用する動きも同時に進行し、階層的/宗教的な秩序からの離脱が図られた。

 

III 自然をはじめとする<理念>の無力化(pp.241-249)

 

 機能的分化が進むにつれ、「自然」というシンボルは説得力を失い、「自由」という主題が浮上する。そこでは、自由な主体を因果的に統制するというパラドックスが生じることとなり、その乗り越えのために「価値」というシンボルが使用されるようになる(が、価値だけでは情報が不足している)
 他方で、自然から自由と価値というシンボルを使用することに伴って、教育を「技」とみなす記述も存続困難になり、その代わりに教育を「学術」の応用として理解する試みが登場する。こうした自己記述の変化は、近代的な学校組織の普及によって支えられていた。
 これらはみな、機能システムが分離したという事実を事後的に振り返ることで明らかになる事態である。教育は(階層的な秩序を前提とした)道徳の振興を断念し、教育システム内部で生じたコミュニケーション可能性の過剰をシステム固有の論理で処理するようになる。教育の機能が家から学校に、家父から教師へと移行したこと、「教育的授業」という観念によって授業システムが教育に組み込まれるようになったこと、教育の自己記述の試みとしての教育学の登場と、授業の担い手である教師/教育を自己省察し、組織的な基盤を構想する教育エスタブリッシュメントとの分化、これらの動きが、システムが機能分化するなかで生じることになった。
 教育システムが機能分化を遂げるなかで、理想/実践という差異図式は、理念の称揚から絶えざる改革へと、その適用のあり方が変化することになった。これは、教育の自照が作動のなかで遂行的に達成されることになったことを意味する。

 

IV <不確定性定式>による自己記述の可能性(pp.249-256)

 

 前節の事態は、「教育システムの自己記述の目標は、教育システムの一体性についてコミュニケーションすること」[そのことによって、自己塑成的システム(の一体性)を再/生産すること](p.249)と言い換えることができる。このようにことがらを把握すると、(逆説的に)教育を一体性ではなく、差異によって捉えることになる(自然/反自然、完全性/有用性、啓発/職業教育などなど)。
 自己記述による差異の産出という逆説的な事態を、スペンサー=ブラウンは「形式中への形式の内部転写」(p.251)として捉えた。差異の産出がもたらす不定性をシステムは処理しなければならないが、そのために用いられる形式が「不確定性定式」である。不確定性定式は、システムに内部転写された内部(自己参照)/外部(外部参照)の区別の「境界を越えて往復することにより、どちらの側をも評価できるもの」(p.252)である 。

 

・諸機能システムにおける不確定性定式

 

  (1)宗教システム…神
  (2)経済システム…不足[希少性]原理 
  (3)学術システム…「限定可能性」
  (4)法システム…正義
  (5)政治システム…正統性

 

   →不確定性定式が生じた理由は、「機能システムが分離され、可能性の過剰が生じ、当該システムがその縮減を図らなければならなくなったことに、求められる」(pp.255-256)

 

V <カリキュラム改訂としての改革>と啓発の危機(pp.256-268)

 

 教育システムがはじめに用いた不確定性定式は「ビルドゥング[啓発、教養]」であった。ビルドゥングは、自然(的な秩序を有した成層社会)への従属という観念を、<個人>と<真理>という脱(成層)社会的な概念によって置き換え、主体の内部参照と外部参照すなわち、自分自身/世界との関係として理解された(pp.259-260)。
 「<内なる無限性=主体>、<外なる無限性=世界>を、<歴史としての精神>」(p.261)によって調和する人文主義的教育学が、ビルドゥング概念を用いた自己記述の典型であるが、そこには意味の社会的次元への考慮が欠如していた(社会性の次元が道徳に縮減されていた)ために。教育システム全体を捉えることができなかった。19世紀の「精神科学的」教育理論でビルドゥング概念の刷新が図られたが、「教育学が自己組織化と自照を頼りにするしかないのはなぜか、どこまで頼りにできるのかを、教育学に向かって説明するような社会理論は、見られない」(p.265)
 こうした状況のなかで20世紀の教育システムでは、ビルドゥングという不確定性定式が解体することになった。教育の一体性に関するコミュニケーションのなかで現代的な教育課題として提示されているテーマは、①生涯教育のなかで重視された<学習能力の学習>、②絶えざるカリキュラム改訂として具現化する<教育内容の決定による基礎づけ>であるが、これらはいずれも、ビルドゥング概念の解体を物語っている。それでは、教育システムは、ビルドゥングに代わる新しい自照理念を生み出すことができるのか? 次節以降では、この問いについて考える。

 

VI 制度改革よりも<未知の未来>への対応力を(pp.268-271)

 

 社会的次元を考慮すると、啓発を通じた解放(自由の獲得)というビルドゥングの理念の弱点が露呈する。契約の自由によって、社会的次元の不定性を縮減しようとしてもそこには限界があり、現代の諸機能システムは、リスクや不安などといった、自己が生み出す不確かさをテーマとしたコミュニケーションを(別様な形式で)行うようになっている。
 教育システムにおいても上記の事態は例外ではない。「したがって、教育すべき若者を、未知のままであり続ける未来に対応できるようにするための教育学が、なければなるまい」(p.270)

 

 →既知の知識の学習から、決定することの学習(未知を決定のリソースとし、無知を活用する)の重視へ

 

VII 主体理論から<自照理論>へ(pp.271-278)

 本書で試みたことは、社会理論によって教育システムを観察し、再/新記述(リディスクイリプション)することであった。これは教育システムの自照理論である(と社会システム理論からは観察される)教育学に対する批判的な分析ではなく、システム理論的な再記述だけが真実だと主張するものでもない。
 自照理論は、全体社会の秩序が成層的に分化したものから機能的に分化したものへと移行することによって生じるものであり、各機能システムはそれぞれの自照理論を有している(ex:学術システムの自照理論は「認識論」)。教育システムの自照理論は、それぞれが信奉する理念によって実態を断罪するのではなく、(教育システムの一部しか把握できない従来的な)教育学的なコミュニケーションに内閉するものでない。それは、授業というミクロ多様性に立脚した理論である。
 学術システムの一環をなす社会理論による教育システムの再/新記述は、教育学者たちのコミュニケーションと接続することによって、教育学に影響を与え、教育システムの自己記述を自らの論理に即した自照理論的なものへと変える可能性がある(「二流の学問」ではなく、教育システムの自己記述としての教育学が登場する)。本書はこうした意図のもとで、社会理論が教育学とコミュニケートする試みである。

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