October 12, 2006

『社会の教育システム』7章の要約メモ

 こんにちは。繁忙期に入り、続きの記事を投稿するのが遅れてしまいました。ルーマン本も、これで最終章です。社会システム理論の言葉で、教育的な事象を再記述することの意義が示される部分です。難解ですが、ルーマン理論を教育研究に応用する可能性を考えるうえで欠かせない章だと思いました(最後の節は、ルーマン的な「社会学的啓蒙」の意義を教育に即して繰り返し強調しているだけ、のようにも読めますが)。 

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September 30, 2006

『社会の教育システム』6章の要約メモ

 こんにちは。おとといに自宅に戻ってきました。帰省で減退した勤労意欲の立て直しをはかるこのごろです。沖縄ではすっかりご無沙汰していた方と久々にお会いする機会があり、(良い意味で)以前と変わらずお元気な姿をみて、励まされる気がしました。

 今回は、6章の要約メモをアップします。後半部分から抽象度が一層上がり、より難解になると感じるのは僕だけでしょうか。

 それはさておき、そこで提示された理念や計画の善し悪しを抜きにして、いわゆる「教育改革」をぶちあげることが果たす社会的な機能を淡々と(でもないか)記述する後半部分がとくに興味深い箇所でした。

 「どうせ外部の者に現場のことは分からないんだ」という教師のぼやきや、「昨日の敵は今日の友」とばかりにめまぐるしく変化する学校組織やカリキュラムは、教育の世界を知る人にとってはありふれたことがらかもしれません。

 ところがルーマンさんは、これらの背景にある<教職のプロフェッション化><教育組織の改編>に、システムのパラドックスを隠蔽し、そのままでは空疎にすぎない「教育する意図」にある内実を付与する働きを見いだしています。教育学的な議論ではネガティブなことがらとして把握されがちな事象に、社会的な機能があることを発見するところに、ルーマンの議論の面白さ(と難しさ)があるように思います。

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September 27, 2006

『社会の教育システム』5章の要約メモ

 帰省中で勤労意欲が減退しているこのごろですが、少しは仕事を進めておかないと、あとでひどいことになるのでがんばります。

 

今日は第五章の概要メモを掲載します。「分離」は、Ausdifferenzierung(分出という訳語が多いような…)を意味します。

 ちなみにこの章は、教育システムが機能システムとして分出する様相を再記述している部分です。他のシステムとの関係が、あくまでも教育システム独自の論理に即したかたちで変換されている(パラドックス展開)という点が、面白いところだと思います。あたりまえと言えばあたりまえなのかもしれませんが。

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September 24, 2006

『社会の教育システム』4章の要約メモ

 昨日の晩に、出張からもどりました。明日から数日間、遅めの夏休みをとって沖縄に帰省します(が、向こうでも仕事をしなければ。ううう。各方面にご迷惑をおかけしてすみません)。

 第四章は非常に短い章ですが、ルーマンさんは教育システムにおける授業(という相互行為システム)の役割をかなり重視しているように思います。そのわりには、授業の中身の記述については禁欲的なのですよね。このへんをどう考えるのかが、ルーマンさんの理論の応用をめざす時の一つのポイントかもしれません。EM的な授業研究や教育学的な「授業実践」をめぐる議論(昨日のI先生の報告は、このラインの可能性を模索するものだと理解しました)と接合するのかしないのか、はてさて。

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September 23, 2006

『社会の教育システム』3章の要約メモ

 大阪出張中です…。練習不足でプレゼンがうまくゆきませんでした……。次回はもっときちんと準備して、聞き苦しくない報告にします……。また、報告してもいいですか… (スパムメール風余韻)。

 ということで(?)気を取り直してメモ書きをアップします。

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September 20, 2006

『社会の教育システム』2章の要約メモ

 『社会の教育システム』第二章の概要です。個人的には、(あえて)生徒を<平凡なマシーン>として取り扱うことが、かれらの自己社会化を促進するという議論が興味深かったです。教育学的な議論で、「教え」と「学び」を対立的に捉える枠組みを乗り越える図式を提示しているような、していないような。「演技されたコンセンサス」の獲得という議論は、付け焼き刃でもいいので議論できるツールを獲得するという現代的な教養をめぐる議論とも通ずるような、そうでないような。

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September 18, 2006

『社会の教育システム』1章の要約メモ

 納期に追われているうちに、半年もブランクが空いてしまいました。サイトを閉鎖するのももったいないので、記事の内容の統一性にはこだわらず、更新できるときに更新するというやり方をとることにしました(同じようなことを何度も書きつつ、さぼっているような気がしないでもないですが)。

 ということで、久しぶりに、読書会のために作成したメモをアップします。

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April 03, 2006

自分のためのメモ

 ニクラス・ルーマン『社会の教育システム』(村上淳一訳、東京大学出版会、2005年)を再読。ルーマンさんはドイツを代表する社会学者で、社会をコミュニケーションによって構成されたシステム(正確には、コミュニケーションが遂行的に構成するシステム/環境の差異。うーん、不正確かも。)として捉える理論的な枠組みを提起したひとです。

 

と書いても、「なんのことやら」と思う人がほとんどではないかと思います。まあ、自分のためのメモということで、ご勘弁を。この本では、教育の世界をシステム理論のことばで再記述することを通じて、教育学的な議論が見落としていた盲点が明らかにされています。

 「どうして教育の世界ではいつも「子ども」がキーワードになっているのだろう? 」「悪口を言われつつも、試験が無くならない理由はなぜだろう」「多くの人が、時にはまったく相反する主張をしながらも『教育の問題を解決しなきゃ』という点では一致してるのはどうして」、などなど、教育の世界の独特な性格を厳密に把握したいという人にはお勧めの本ですが、慣れるまでつらいかもしれません。教育する意図を感じられる訳注の多さも特徴です。以下は、自分のためのメモ。

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May 30, 2005

本田由紀さん『若者と仕事』のメモ

 じぶんのためのメモです。

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May 24, 2005

学校は、なにをするところなのか。

 橋本治さんの『勉強ができなくても恥ずかしくない』(ちくまプリマー新書、2005年。1〜3巻)を読む。

 (おそらく)筆者自身をモデルにした「ケンタくん」が小学校に入学するところから物語はスタートする。もう小学生なんだからとおもちゃを捨てられ、勉強するための場所である小学校に入学するケンタくん。はじめてみる校庭の広さ、鉄棒の高さに驚きながら、これからはじまる小学校生活に不安と期待を感じるかれを待ち受けていた出来事は…。

 結局のところ、学校とはどういう場所なのか。そこではじめて生活することになった子どもにとって、気がかりなことや嬉しいことは、いったいどんなことなのだろう。東京の下町、1950〜60年代ごろの学校生活と当時の社会の空気が、ケンタくんの目を借りて、くどいくらいに分かりやすくかみ砕かれたスタイルで提示される。同書を読み進めるにつれて、学校について思い浮かぶ素朴な疑問が次々に解消されてゆく。

 読んでみて印象に残ったことは、ある時期まで(60年代くらいまで?)の子どもにとって、「進学する」ことや、「入学試験を受ける」ことの意味がかなり異なっていたことである。ケンタくんにとって、本来ならば私立中学受験対策の一環であるはずの模試は、学校での試験と違って範囲がとくに決まっていないので「楽」な試験であり、帰りに友達と鯛焼きを食べることができる社交の場であった。

 こうした感受性が、下町の商家という出自に起因することなのか、教育の大衆化の途上にあるこの時期に生きる子どもたちに共通するできごとなのか、はたまた、自分の頭で愚直なまでに思考をつきつめてゆくという特異なパーソナリティーによるものなのかは定かではないが、ある時期までの学校生活の実像がリアルに感知される小説であることは確かである。そういう読み方をするのは邪道かもしれないが、50〜60年代の学校生活のリアリティ(もちろん、そこには橋本治的批評精神が通底しているのだけれど)をつかむために使える本だと思う。

 でも、もしかすると「ケンタくん」は、いまの世にもいるのかもしれない。と感じさせるところに、おそらくこの本が橋本治によって書かれたことの意味があるのだろう。
 

 

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