April 05, 2004

「脱出不能 no exit」の論理をどのように伝えるか

 朝日新聞の朝刊(2004年4月5日)に掲載された記事(概略) によれば、経済的なゆとりがあり、都市部に在住する大卒・短大卒の保護者ほど、現在の教育改革を支持する傾向があると言う。新聞に掲載されたデータをみると、かれらは学校に対する満足度が相対的に低く、飛び級・習熟度別授業や学校選択制・学校間競争などの教育の自由化・市場化・規制緩和に肯定的な回答を示す傾向にある(朝日新聞とベネッセ未来教育センターが共同で実施した「学校教育に対する保護者の意識調査」による。同調査の速報版がここに掲載されている)。

 これは、ある意味で予想どおりの結果と言える。欧米の研究によれば、いくつか留保すべき点はあるにしても、学校教育制度に(疑似)市場的な原理を導入する政策は、社会経済的に中・上層に位置する家族に有利に働き、社会的に不利なグループを周辺化する結果をもたらすことが指摘されているからである。
 今回の調査のように、教育の自由化・市場化を支持するグループが、ある程度以上の「ゆとりある人々」に偏っていることを確認したうえで、今後検討しなければならないこととして、次のようなものがあるだろう。
 
 (1)家族の教育意識・教育行動に階層的な要因がもつ
   規定力について、中長期的なトレンドを追うこと。
 
 社会経済階層によって、教育に対する意識やその利用の仕方が違うという事実自体は、ある意味で常識的なことに過ぎない。重要なのは、階層要因が家族の教育戦略に与える影響が、時系列的にどのように変化しているのかということである。
 記事のなかでも触れられていたが、これまで文部科学省が実施してきた各種調査では、階層に関する要因があまりにも軽視されてきた。できれば行政機関の手によって、教育と階層をめぐる問題について分析可能な全国データを長期的・系統的に蓄積することが必要だろう(これがいかに困難なことなのか、ということは充分承知のうえで)

 (2)「ゆとりある」人たちの内部に見られる違いを検討すること。

 周知の通り、教育には私的な財としての側面と公共財としての側面があり、両者は分かちがたく結びついている。紙面に掲載されたデータでは、社会経済的にゆとりのある人々のほうが、教育の私事性を重視する結果が強調されていた。もちろんそれはそうなのだが、他方で全体の回答傾向をみると、教育の内容を国家が保障すること、過度な競争を抑制し、基礎学力をきちんと身につけさせるすることについては、かなりの割合の人々がそれを肯定する見解を示している。
 データがないので、ここからは推測になるのだが、調査対象者全体の回答傾向を見る限り、「ゆとりある人々」の内部にも、公共財としての教育を重視する人々が一定程度存在する可能性がある。逆に、あくまでも私的な利益にもとづいて教育を行う人々は、「ゆとりある人々」のなかに、どのくらいいるのだろうかという疑問も生じる(これについては、朝日の記事にコメントをよせている耳塚寛明氏が「高い学歴達成を子どもに託して投資する」家族(「投資型家族」)が調査対象者の1割弱にのぼることを指摘している。ただし、同一階層内に「投資型家族」が占める割合については詳しい言及がなかった)。要するにここで言いたいことは、「ゆとりある人々」内部にはいくつかのサブ・グループが存在する可能性があり、それを明らかにする必要があるということである。

 なぜ、このような問いを立てなければならないのか。それは、「公共財としての教育」という論点を改革の支持者たちがどのように捉えているのかを知るためである。
 あたかも一つの商品のように学校を選択し、自らの便益を増大させることだけをめざして公教育を利用する。「ゆとりある人々」に特徴的なこうした振る舞いは、「共有地の悲劇」をもたらす危険性がある。教育の市場化によって、「良い」学校/「悪い」学校が分極化し、階層的な棲み分けが進行すると、その予期せぬ結果として、社会全体の不利益(例えば「困難な学校」で逸脱文化が純化し、犯罪が増加するなど。もちろん、公教育の水準低下やサービスの偏在によって起こりうる問題は他にもあるだろう)が生じるかもしれないのである。

 そう、アメリカの教育社会学者、デイビッド・F・ラバリーが指摘するように、「私的財としての教育によって手にできる便益を高めるために、現在のものとは違う種類の教育を求めて脱出することによって、教育における選択の自由を行使することが許されるとしても、それでも人々は公共財としての教育から脱出することはできない」のである(「脱出不能」藤田英典・志水宏吉編『変動社会のなかの教育・知識・権力』新曜社、2000年、p.130。

 短期的なスパンで考えれば、私たちは教育を一つの商品として選択できるかもしれない。だが、中・長期的にみると、教育の問題は「わたくしごと」だけで片づけることができない、社会全体の財をどのように構想し・共有するか、という論点を不可避的に呼び込んでしまう。自分の子どものことだけを考え、「良い教育」をめざして脱出することの不可能性(no exit)。この論理は、現在改革を支持する「ゆとりある」人々にどの程度響くのか。改革の追い風のゆくえを探るためにも、かれらの内部にいかなる分割線が存在するのかを検討する必要があるだろう。

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