March 07, 2006

変わっててもいいじゃん

 このところ「最近の若者は…」の後には否定的な言辞が続くのが常だ(予断)。だいたい世間の大人たちが、年少世代を「最近の若者」とひとくくりにしてしまう点が問題である(憶測)。それだけならまだしも、限定された範囲で見聞きしたことや大上段に振りかぶった議論の影響を受けて、自分たちとの違いをことさらに強調し、若者のすべてを「悪しき存在」として断罪するのは心が病んでいるとしか思えない(誇張)。若者に対するバッシングを諫める議論もあるけれど、だれもそんなことを聞いちゃいやしない。まさにそのことこそ、国際化・情報化・高度資本主義化・少子高齢化・脳のトレーニングに役立つゲーム脳化が急速に進む我が国の社会病理ではないのか(紋切型)。ああ、嘆かわしい…。

 でもよく考えてみると、僕たちはさしたる根拠もなしに、若者を叩くことに躍起になっているだけじゃないの?

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March 02, 2006

あなたって、そんな人だったの?

 しばらく連絡を取っていない友達にメールを送る。よく一緒につるんでいたころの昔のあれこれを思い浮かべながら書いた文章に返事がくるまでのあいだ、どこか落ち着かない気持ちになる。僕はいまでもきみと気持ちが通じ合っているように考えているんだけど、きみはそう思っているのだろうか?  メールに書いた過去のエピソードに登場するきみや僕の振る舞い、そこからうかがえるそれぞれの人となりは、もしかすると僕の勝手な思いこみが生み出した幻想に過ぎないのかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えながら受信メールのチェックを繰り返していると、きみからの返事が届いていることに気づく。…うん、きみはやっぱり変っていないようだ。このめまぐるしく変化する世知辛い世の中で、僕らはなんとか友情を維持しているらしい。

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February 13, 2006

面白かった本/面白そうな本

 季刊状態のこのサイト、忙しさを言い訳に更新をすっかりさぼっていました。他の人のブログをみているだけで幸せ…という気持ちが強くなってきたので、店じまいしようかとも思うのですが、でもまあせっかくなので、しばらくは備忘録的に使おうかなと気を取り直しました。自分のためのメモを公開してどうするのという気もするのですが、もともと訪問者も少ないので、ゆるい感じで続けることにしました。

 というわけで、最近読んだなかで面白かった本と、これから読もうかなと考えている本のご紹介です。

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November 23, 2005

ひとこと感想『下流社会』

 こんにちは。まとまった文章を書こうとすると、更新が滞ったままになりそうなので、あまり考えずに読後感を書くことにします(こんな記事ばっかりになりそうな)。

 三浦展『下流社会』(光文社新書、2005年)。ベストセラーとしてあちこちで言及されている本なので、内容については触れませんが、ネーミングの秀逸さ、図式のわかりやすさが売りの本です。ただ、この本を読むときに注意したいのは、所属する階層意識をもとに、「下流」の操作的定義がなされているにも関わらず、あたかも共通する社会経済的な属性を持つ集団であるかのようにして議論が展開している箇所が見られることだと思います(もちろん、筆者はそのことを自覚しているわけですが、誤読されかねない表現が多い)。

 もちろん、階層所属意識そのものを議論することは重要ですし、意識と社会経済的な属性の間には対応関係があることも確かなのですが、階層意識論が、実体的な階層をめぐる議論と混同されるとかえって問題の所在が見えなくなってしまうような気がしました。

 それから、統計データやインタビューをもとに、いくつかの「典型」が描かれる際に、「下流」に属する集団はみな同じような特性を持つかのように描かれている点にも留意する必要があるように思いました(もちろんそれが「典型」の果たす機能ですが)。

 と、書いているうちに一言ではなくなってきたのでこのへんにしますが、こうした点を差し引いて読む必要があるとしても、「階層の二極化」(が進行しているかどうかは、今年実施されているSSM調査の結果を待つ必要がありますが)が人々の社会認識に与える影響を探るためのさまざまな論点が示されている点では、学ぶ点が多い本です。

 

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July 15, 2005

地元で生きる、ということ。

 お久しぶりです(誰に向かって言っているのやら)。最近、忙しさと夏風邪にやられて更新が滞っていましたが、感想と励ましのメールをいただき、重い腰をあげることにしました(単純ですね)。

 それはさておき、少しだけじぶんの昔話をさせてください。僕は地方の出身で、学生時代を東京で過ごしていたのですが、上京してしばらくのあいだ、出身県関連の財団が運営していた寮に住んでました。

 そこは県のカラーがむちゃくちゃ濃い寮で、休憩室のテーブルには寮生の実家から送られてきた県産品のおすそわけが(ほぼ)常備され、ここに入った者は、我が県のシンボルともいうべき伝統芸能を習得しなければならない、という暗黙のルールまであったのでした。

 風呂・トイレ共有、掃除当番あり、2食昼寝つき・格安家賃・飲み会多数のこの寮、地方から身一つで花の都・大東京にやってきた僕にとっては、かなり居心地のよいところでした。しかし、残念なことに通っている学校から遠く、電車通学に嫌気がさして半年くらいで引っ越すことに。なかば仮住まいといった感じでしたが、そこで遭遇した人々はいまでも印象に残っています。

 吉川徹さんの『学歴社会のローカル・トラック』世界思想社、2001年を読んだときに、まっさきに思い浮かんだのが、この寮での生活でした。地方からはるばる上京してきた寮生が、身を寄せ合って(というにはあまりにも騒々しい生活でしたが)一つ屋根の下で過ごす。東京の大学で学び、あれこれの経験を積んだあと、再び地元に帰ってゆく。ああ、そうか、あの寮で形成される過剰なまでの地元意識は、この本で言うところの「ローカル・トラック」の制御を試みる戦略がもたらしたものかもしれないな。

 と、そんなことを書いても、同書を読んだことがない人は何のことだか分からないと思うので、ちょっとだけ本文を引用してみよう。

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May 29, 2005

すきまとあいだのあわいに

 僕たちが何かを教え(教わり)、あるいは学ぶときに、教育者と学習者に介在し、両者をなかだちするものがある。黒板と教科書、壁掛け地図に人体模型。OHPで映し出された写真やグラフ、各種の辞書や副読本たち。

 そんな学校らしいアイテムを想記するまでもなく、言葉や身振りを介さずにものごとを伝え・理解することの難しさを考えてみれば、あいだを取り持つ何かがなければ、教育という営みが成立しないことが分かるだろう。

 ベンヤミンを手がかりに近代教育思想の可能性と限界を模索してきた教育研究者、今井康雄さんの『メディアの教育学』(東京大学出版会、2004年)は、「中間にあって作用するもの」(同書、p.1)としてのメディアに光をあて、「メディア自体の持つ『教育学』を教育学的考察のなかに組み込もうとする試み」(p.1)を示した本である。

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April 19, 2005

学校のできごとを知る、ということ

 きょうはやや古めの本の紹介です。最近は学校論からやや遠ざかった感があるけれども、小浜逸郎さんが80年代から90年代の半ばまでに展開した議論を知っているかどうかで、教育ギョーカイの風景の見え方や問題の捉え方は、だいぶ変わってくるように思う。

 小浜さんの仕事を乱暴にまとめると、教育の世界に蔓延している理念的な思想(その多くは空疎なほどに美しい)を取り上げ、ありのまんまのぱっとしない「現実」のなかで、それがどのくらいの力を持つものなのかを吟味してゆく、ということになるだろう。

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April 13, 2005

「教育社会学」ってなんだろう?

 このサイトでは、現代社会と教育に関する本を紹介しているのですが、あらためて読み返してみると、教育社会学者たちの仕事に言及することが多い気がします。ということで(もないですが)、教育社会学ってどんな分野なんだろうという人向けに、入門書をいくつか紹介してみたいと思います。

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April 12, 2005

数字に弱いあなたへ

 少し毛色の違った本の紹介です。仕事がら、パソコンをあれこれいじって、もっともらしい調査分析レポートを作成することがよくあるのですが、文系出身の僕にとっては統計学を理解するのはなかなか骨で、いまでも付け焼き刃の知識にすがりながら、どうにかこうにか暮らしています。

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April 11, 2005

教師たちのつぶやき

 教育解放研究会『学校のことば 教師のことば』(東方出版、1994)年は、教師たちが学校でつかうことばを取り上げながら、学校らしさや教師くささについて考えてゆくというスタイルの本である。

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March 08, 2005

不器用なたちですから。

 この世の中は、「わかっちゃいるけど止められない」ことで満ちている。あれこれの締め切りが迫ってきて、机に向かって仕事をしなきゃいけないのだけれど、ひとのブログやなじみの掲示板を閲覧しちゃう。食べ放題のお店にゆくと必要以上に張り切り過ぎて、苦しくなるのは目に見えているのに、再び皿を手にとって立ち上がる…。他にもたくさんあるのだけれど、あまり書くと僕のダメ人間ぶりが露呈されるのでこのへんにしておきます。

 もしかすると皆さんにも思い当たる節があるかもしれないそんな出来事を社会学的に考えてぬいてみた本が、長谷正人さんの『悪循環の現象学』(ハーベスト社、1991年)である。はしがきをちょっとだけ見てみよう。

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February 02, 2005

ささやかな願いをこめて、新たな名を与える

 アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』(翻訳が岩波書店から刊行されています)は、するめみたいに味わいがあるファンタジー小説で、僕のなかでは、「たまに書架から取り出しては読み直す本」というカテゴリーに分類されている(そういう本って、ありませんか?)。

 この小説では、ことば、とりわけ名前のもつ力が物語の重要な鍵をにぎっている。小説の舞台となる「アースシー」(もちろん架空の世界です)では、事物の「真の名前」を知るものは、魔法使いとしてその力を発揮することができるとされている。

 当然のことながら、僕らの生きているこの世界は、名前を知ったからといって、何がどうなるわけでもない。しかし、よく考えてみると、ものごとをどのように名づけるのかということが、それが指し示すことがらのあり方を決定する、ということがある。

 浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(医学書院、2002年)は、ことばのもつそんな力の意味を改めて感じさせてくれる本だ。

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January 25, 2005

不良債権化する家族

 しょっぱなから不吉な見出しで恐縮ですが、山田昌弘さんの『家族というリスク』(勁草書房、2001年)を読んでいると、家族をやっていくのも楽じゃないよなあ、とため息がでる。

 この本の一番の強調点は、現代社会において、これまで標準的だとされてきた家族、すなわち、夫が一家の稼ぎ手、妻は専業主婦という分業のもとで形成される、情愛に満ちた教育に熱心な家族を営むことが、今は逆に「リスク」に満ちた選択になっているということである。しかもその「リスク」なるものは、これまでのものとは性格が違うという。例えば、次のような叙述だ。

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January 22, 2005

ひとりでいる淋しさ、ひとりでいる喜び

 今度の週末に友達と遊びにゆく約束をした。「久しぶりに温泉にでも行きたいね」「うん、いいねえ。近場に行って、帰りにそばでも食べようか」。その日がくるのが楽しみだ。

 そう思う反面、なぜかは知らないけれど、気が進まなくなることがある。約束したときは盛り上がったけれど、よく考えてみると本当に自分は温泉に行きたかったのか、という思いが頭をよぎる。出かけるときに何を話そうか…そういや、最近共通の話題がないな。この前会った時と同じ服を着て行くのもなぁ。次はどんな格好で出かけようか。

 そんなことを考えているうちに、あんなに楽しみだった予定が、いつのまにか色あせている。あるいは、そんなことをあれこれ気づかうまでもなく、単に面倒くさいな、と思うこともある。一人でいたいんだ、と感じる。何をするでもなく、ぼけっと過ごしたほうが楽だと。

 でも、約束した日がやってきて、実際に行くと楽しかったりする。なんで行く前にぐずぐずと逡巡してたんだろう。きっとあのときはどうかしてたんだ。そうこうしているうちに、日が暮れる。さよならを言って家路につくときに、淋しさを感じるとともに、どこかほっとしている自分がいる。

 みなさんは、そんな経験をしたことはないだろうか。こういうささやかな出来事の意味について、もう少し掘り下げて考えてみたいという方にお勧めの本がある。

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January 21, 2005

それ、誰がやったの?

  同じものごとでも、誰がそれをしたかでまったく意味が変わってくる、というのは、日常生活を送る上での常識だろう。例えば、「立ち上がる」こと一つとっても、僕がそれをするのと、生後3ヶ月の子どもがそうする(わけはないが)のとでは全然その意味合いが違う。

 上記の例とはかなり違うけれど、佐藤卓己『言論統制』(中公新書・2004年)は、鈴木庫三(すずき・くらぞう)少佐とは「いったい何者なのか?」というシンプルな問いを掘り下げることによって、戦時期の言論史を一新した力作である。

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January 18, 2005

愛について語る時に社会学者の語ること

 このサイトもそうだが、「社会」について語る時、僕たちはなんとなく肩に力の入ったものいいをすることが多いのではないだろうか。「天下国家を論じる」とまではゆかないが、「社会」という言葉を使うやいなや、どこか大所から物事を見下ろすような、そんな感じを受けるという人もいるだろう。

 『ジンメル・つながりの哲学』(NHKブックス、2003年)で知られる菅野仁さんが最近上梓した『愛の本』(PHPエディターズ・グループ、2004年)は、そういうやり方とは違うやり方で、「社会」について語る言葉を模索した好著である。

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January 16, 2005

もう、しつけはいらない?

 成人式の時期になると、「モラルが低下している」やら、「しつけがなっていない」だの、(特に若い人の)規律の低下を嘆く言辞が年中行事のように飛び交うのが常である。でも、私たちが住むこの社会は、細かな統制を通じてある特定のルールに従うように人々の内面を変えて行くというおなじみのやり方を本当に求めているのだろうか? 

 そんな問いかけを提示する本の一つが、酒井隆史さんの『自由論』(2001年、青土社)である。秩序のあり方が急速に変わりつつある日本社会で、「いまなにが起きているのか、という大それた問いをめぐって、権力論のアプローチから考えてみようとする」(p.10、はじめに)というのがこの本の主題である。難解な同書の内容をかみ砕いて説明することは困難であり(僕の力では無理です。だいたい分からないところの方が多い…)、多岐に渡るテーマのすべてに言及することも筆者の手に余るので、同書のなかから、興味深い議論をひろいだして紹介してみたい。以下は、同書の第二章「生に折りたたまれる死」の概要である。

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January 11, 2005

アートはそれ自体で価値があるかもしれないけれど、

 でも、ある特定の芸術が生まれるその背景を知っていたほうが、何かと楽しいことも確かである。いまさらながらの紹介かもしれないが、鈴木あかね『現代ロックの基礎知識』(ロッキング・オン社、1999年)は、読後にそんなことを感じさせる本の一つである。

 「ロック広辞苑」と題して『ロッキング・オン』誌に連載されたコラムをまとめた同書の章立ては、次のとおりである。

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January 09, 2005

不吉な予言を語る意義は…

 とんちで有名な(?)一休さんの逸話で、正月になると竹ざおの先にしゃれこうべをぶら下げ、「ほれこの通りご用心」と尋ねながら、あちこちの家を訪問したというエピソードがある。仏教的な無常観を伝えるための荒療治でそういうことをしていたようだが、あえて不吉な言動を取ることで、じぶんの伝えたいことを印象づけるというやり方は、古今を問わず存在するようだ。

 一休さんになぞらえられるのは不本意かもしれないが、正月休みに斉藤貴男さんの『機会不平等』(文春文庫、2004年:原著は2000年)を読んていたら、しゃれこうべの逸話を想記してしまった。

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July 28, 2004

この一歩さえ踏み出せれば

 「ニート」という言葉をご存じですか? ニート(NEET)とは、Not in Education, Employment, or Trainingの略称で、教育機関に在籍しておらず、かといって雇用されている状態にもなく、職業訓練を受けているわけでもない若い人々を表す言葉である。ニートは、求職活動をしている「失業者」でも、いわゆる正社員ではないが、労働の現場にいるフリーターとも違う存在である。もともとはイギリスの若年失業者問題を論じる時に使われてきた用語だが、最近、フリーターやひきこもり問題との関連で、日本でも使われるようになってきた。

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July 19, 2004

「新しい」という形容をじっくりと吟味する

 アルベルト・メルッチ『現在を生きる遊牧民』(山之内康ほか訳、岩波書店、1997年【原著は1989年】)は、「新しい社会運動」について考えたい人の必読文献の一つである。

 

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July 09, 2004

知覚過敏に効く本

 久しぶりに、広田照幸さんの『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、1999年)を読み返す機会があったのだが、やはり良い本は5年経ってもその主張が古びないなと感心する。

 かなりの話題を呼び、いろんなところで取り上げられた本なので、いまさら内容を詳しく紹介するのもどうかと思う。なので、きょうは簡単にそのあらすじを記しておきたい(単に忙しくて更新が面倒くさくなったんじゃ…というつっこみはなしで)。

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July 04, 2004

複々線化する人生

 溝上慎一『現代大学生論』(NHKブックス、2004年)は、タイトルが示すとおり、今時の大学生に焦点をあて、かれらの生活の実相を描きだすことを試みた本である。いちおう「大学生論」と銘打っているが、現代若者論として読むことが可能な射程の広がりをもっている(筆者もそのつもりで書いているのだろう。なんといっても現在は、18歳人口の半数近くが大学生なのだから)。

 筆者自身が「あとがき」に書いているように、本書の内容は次のように簡潔にまとめられる。

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June 27, 2004

三角測量のすすめ

 社会調査、とくに質的なデータを取り扱う調査法の持ち味を説明するときに、トライアンギュレーション:triangulationという言葉がよく用いられる。耳慣れない用語かもしれないが、日本語に訳すと「三角測量」のことで、もとの意味は以下のとおりである。

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June 23, 2004

みんな本を読んでおおきくなった

 竹内洋『教養主義の没落』(中公新書、2003年)は、いまはかなり輝きを失ってしまった「教養」というものが、多くの人々を魅了していた時代をふり返りながら、読書を通じた人間形成や社会改良をめざす「教養主義」が登場し、多くの人を巻き込んで展開し、そして没落してゆくさまを描きだした本である。

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June 16, 2004

諸行無業の響きあり

 若年労働者を取り巻く状況は急速に変わりつつあるので、もしかするともう情報が古いのかもしれないが、大久保幸夫編著『新卒、無業。』(東洋経済社、2002年)は、90年代以降の若い人達の就職をめぐる状況を手っ取り早くつかむには便利な本である。主張自体に目新しさはないが、文章の流れが良く、データの見せ方がうまいので、さっと通読すれば、この領域について大まかな見取り図を頭に入れることができる。

 
 この本を読んでいて、「なるほど」と興味深く感じた点が二つあるので、それをざっと紹介してみよう。

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June 13, 2004

この子だれの子?

 小山静子『子どもたちの近代』(吉川弘文館、2002年)は、18世紀末から1920年代ごろまでの日本の近代社会に焦点をあて、「子どもをとらえるまなざし」がどのように変化したのか、その歴史を描いた著である。

 「わたしたちは、まずは学校と家庭という認識枠組みで子どもの教育のことを考えてしまう。いったいどうしてなのだろうか」(p.2)というのが、本書全体をつらぬく問いである。

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June 10, 2004

おやおや、どうしたことだろう。

  宮本みち子『ポスト青年期と親子戦略』(勁草書房、2004年)を読む。この本は、『未婚化社会の親子関係』(有斐閣、1999年。共著)や『若者が<社会的弱者>へ転落する』(洋泉社、2002年)などで知られる著者の手による博士論文を刊行したものである。宮本さんの一連の研究は、「大人になること」が不透明になった現代日本の若い人々の実相を描きだす試みである。

 1970年代半ば以降、欧米諸国では若年失業が社会問題化し、学校から職場へ、あるいは若者から大人への移行が長期化・多様化・個人化していった。「大人になること」が不透明かつ困難になった社会、筆者の言葉を借りれば「ポスト青年期」が出現したのである。やや時期を後にするものの、90年代以降の日本でも同様の変化が生じつつある。ただし、ヨーロッパで起きた問題が、ポスト社会福祉国家の到来を背景にしていたのに対して、日本の場合は事情がやや異なる。宮本さんは、次のように述べている。

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May 30, 2004

自由のかたちを夢想する休日

 東浩紀・大澤真幸『自由を考える』(NHKブックス、2003年)は、「セキュリティの上昇」をキーワードに、いまの社会で生じつつある、新しい種類の窮屈さときな臭さとついて語った対談集である。東さんは現代思想・サブカルチャー論を主たるフィールドとする若手の哲学者、大澤さんは独自の理論を構築する一方で、オウム事件やイラク戦争などのアクチュアルな出来事を取り上げつつ、現代社会のゆくえについて原理的な考察を続ける中堅どころの社会学者である。

 この本の内容を一言で要約すると、「規律訓練型の権力から環境管理型の権力へ」ということになるだろう。語り手の一人、東さんは大澤さんの議論を引き取りつつ、次のようにこの変化を要約していた。

 「大澤さんがおっしゃる「第三者の審級」【超越的な次元で、規範(ルール)や意味を根拠づける他者性。例えば「神様はあなたのことを見ている」というフィクションが成立するのは「第三者の審級」が機能しているためである:引用者】の力がだらだらと弱くなるなか、にもかかわらずこの複雑な産業社会をなんとか維持しなければならないという逆説的な要請に応えるために、二〇世紀の百年間をかけて、新しいタイプの「知恵」というか、秩序維持の方法が台頭してきた。それがセキュリティの発想であり、情報管理の発想だと思うんです。
 僕はこれを、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルースの仕事を参照して、「環境管理型権力」と呼んでいます。(中略)環境管理型権力は人の行動を物理的に制限する権力ですが、規律訓練型権力はひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける権力です。言い換えれば、環境管理型権力は多様な価値観の共存を認めているが、規律訓練型権力は価値観の共有を基本原理にしている」(p.32)

 「多様な価値観の共存を認める」権力って、けっこうなことじゃないですか。秩序が維持されるなら、それにこしたことはないでしょう、と思う人もいるかもしれない。しかし、環境管理型の権力が、僕たちの存在のありかたを大きく変えてしまうことを二人は危惧している。それを端的に表す現象が、テロ=戦争時代以降の「セキュリティの上昇」である。
 
 「セキュリティの上昇」とは、典型的にはテロリズム対策のための安全チェックの強化という事態を表す。空港や駅での監視や手荷物検査、ゴミ箱の撤去などなどをイメージすると分かりやすい。これは、安全な空間を確保するために支払わなければならないコストのようにも思える。

 しかし、「監視や環境を管理することによって、生じてはならない出来事を未然に防ぐ」という論理は、セキュリティの対象となる人々の範囲や、その方法がとめどなく拡大してゆく危うさをもっている。小型・高性能の監視カメラの導入をはじめとする様々なテクノロジーを用いて管理の網の目を構築し、不特定多数の群衆にまぎれた「危険な」個人を同定・管理してゆく手法が、いつ、どのような理由で、だれに向けられるのかまったく分からない社会が出現する危うさが「セキュリティの上昇」には付随する。安全の代償として自由が失われることを、私たちはどこまで許容できるのかという問いがつきつけられるのである。

 さらに、この論理をさらにつきつめると、逸脱を監視する以前に、逸脱そのものの可能性が消去されたクリーンな環境を維持するという発想にまでいたる。その実例として、もう一人の話者である大澤さんは、東さんの主張をひきつつ「ゾーニングとフィルタリング」というインターネット上の表現規制の二つの方法についてこのようなコメントを寄せている(ちなみに、この議論の元ネタは、本書でも言及されているように、アメリカの憲法学者、ローレンス・レッシグの研究である。レッシグの本はいつか取り上げたいと思う)。

 「ゾーニングとフィルタリングというのは、インターネット上の表現規制の二つの方法です。ゾーニングというのは、資格に応じて──たとえば成人IDをもつか否か──、サイト(たとえばアダルトサイト)へのアクセスを許可したり、禁止したりする方法です。これは、まだ古典的な排除に近いものがあります。(中略)しかし、ゾーニングにおいては、まだユーザーは排除されているという事実を自覚することができる。ある種の自由を想定すれば──たとえばアダルトサイトにアクセスする自由──、それが排除されている、ということにはなるからです。だとすると、ここまでならば、古典的な権力のイメージが通用するような気分がする。
 ところが現在の権力は、もうちょっと別の、もっと狡猾な働き方をしている。そのことをよく示しているのが、フィルタリングですね。フィルタリングとは、サイトに内容に応じた得点を配分しておいて、ユーザーが要求するような特定の点数のサイトだけを配信するシステムです。フィルタリングにおいては、人は、排除されているという意識をもたない。むしろ、自分は許容されているという意識になってしまう。したがって、そこに権力が作動しているという自覚が起こりえない権力です」(p.164)

 こうした新しい統制の方法は、インターネットに限ったことではない。「マクドナルドでイスが堅いから一〇分で食事を終える。誰に命令されたわけでもないけど、私たちは自発的に何かに動かされている。それは自由なのか不自由なのか」(p.55。東発言)。
  
 この本では、「セキュリティの上昇」「環境管理型権力」の浸透という新しい動きによって、僕たちがこれまで享受していた自由が失われてしまうと主張されている。ここでいう自由は、これまで様々な人々がその獲得を主張してきた古典的な自由ではなく、いままで名前がつけられておらず、失われた時にはじめてその意味がわかる種類の自由だという。それが、どのような自由であるのかは、本書を実際に読んでみて欲しい。今回は二人の主張のうち重なる部分を中心に紹介したが、見解の齟齬もけっこうあって、予定調和的でない対談のスリリングさを味わうことができる本でもある。

 (追記)自由をめぐる問題については「読書日記」さんのこの記事も、参考になります。

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May 27, 2004

小さな声に耳をすまして

 堅めの本が続いたので、今日はすこし毛色の違うものを紹介したい。新垣謙『東京の沖縄人 「東京」で暮らし「沖縄」を思う若きウチナーンチュたち』(ボーダーインク・2003年)は、「故郷の沖縄を出て、東京で暮らすこと」に関する語りを採録することで、はからずも、いまの若い人たちが、どのような「成長の物語」を紡ぎ出しているのかということをある角度から見事に描きだしている。同書の袖(カバーを表紙の内側におりこんだ部分)に書いてある要約文が簡潔に内容を紹介しているので、ちょっと引いてみよう。

 「本書は、東京生まれの沖縄二世フリー・ライター新垣謙が、シマーコラムマガジン「Wander」で1993年から2000年まで連載された「聞き書き 東京の沖縄人」で出会った沖縄人たちのその後を、2001年から2002年にかけて再度取材してまとめたインタビュー集です。「ごく普通に暮らしているウチナーンチュ【沖縄人:引用者】たちがどんな生活をしていて、沖縄をどういう風に思っているのか……2,3ヶ月に一度、東京に暮らすウチナーンチュたちと会い、インタビューという名目で、したたか酒を飲むということとなった。それはもうインタビューという名の飲み会で、『こんなはなしでほんとうにいいんですか』なんて心配されることもしばしばだった」」

 この本では、17人の沖縄出身の若者に対するインタビューが収められている。かれらの職業、年齢、上京した経緯はまちまちで、「沖縄を出て東京に行った経験がある」(語り手の中には現在、沖縄に戻った者もいる)ということ以外には共通項がない。

 沖縄に対する想いもバラエティに富んでいる。原風景としての沖縄をよすがにしながら暮らす人、沖縄をめぐる政治的・社会的な葛藤に言及する人、東京と沖縄の差異を手がかりに、じぶんのいま生きる世界を枠づける人、逆に、両者の同一性を強調する人と、これもまた一様にくくることはできない。

 しかしながら、採録されたインタビューには、共通のトーンがある。これは、同一の聞き手によって編まれたということもあるだろうが、一番大きな理由は、若者から大人へという過渡期のもつ不安定さをのりきるための資源として「沖縄」をめぐる物語が利用されていることによるものだろう。「沖縄という対象をまえにすると、思っていること、感じていること、考えていることが、人それぞれに溢れているのだなぁということが、よ〜くわかったような気がする。そしてみんなが語るべき言葉とできごとを持っているという事実は、沖縄人の強み」(p.275)という「あとがき」の言葉は、そのことを指摘していると読める。

 「語るべき言葉とできごと」を提供する資源としての沖縄。もしかするとそこには、「故郷に錦を飾る」的な、中央と地方の差異を原動力とした立身出世の物語がもつ古典的な筋立てが潜んでいるのかもしれない。しかし、本書のインタビューを読むと、こうした単純な物語には回収し得ない何かがある。個々人のライフヒストリーと沖縄という場がもつ(ある意味で過剰な)物語性が相互に参照されるなかで、等身大の成長の物語が紡ぎ出されているように感じるのである。そこには共同性に埋没するのでもなく、自閉するのでもない、ある社会的なつながりの回路があるように見える。

 こうした語りがうまれる土壌として、複雑な社会的地位におかれた「沖縄」という場がもつ特殊性は否定できない。しかし、これは、沖縄で育ち、東京に出た若い人々だけに特殊なものではないと思う。たとえ、かつてのような「大きな物語」ではないにしても(あるいは成長を語ることの困難性・不可能性のために、語り口がこれまでとは違うものにならざるを得ないとしても)今の若い人達の多くは、いまだなんらかの物語をよすがにして、自己の成長を語ろうとしているのではないか。趨勢としての「島宇宙化」や「動物化」のゆくえをみすえながら、私たちは同時にこうした小さな声に耳を傾ける必要があるのではないか。そこに、新しいつながりの形を求めて。

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May 25, 2004

大草原の小さな家を出て、魔女の奥さまがいない世界で生きる

 ステファニー・クーンツ『家族という神話 アメリカン・ファミリーの夢と現実』(筑摩書房、1998【原著は1992年】)は、「自助の精神」に裏打ちされた家族、独立独歩の強固な家族という、アメリカ社会で「かつては実際に存在した理想」とされる家族の姿が神話にすぎなかったことを明らかにした本である。ちょっと引用してみよう。

 「歴史的に見て、アメリカの家族がいかに外部に依存してきたかを知るために、アメリカ的独立精神の模範として称揚されている二つのタイプの家族について詳しく検討してみたいと思う。一つはいうまでもなくアメリカ的な自助の精神の原型であるフロンティアの家族であり、もう一つは堅固な道徳的価値観と労働倫理故に独力でやり抜くことが可能になったと考えられている一九五〇年代の郊外住宅地の家族である。しかしこの二つのタイプの家族はアメリカの歴史の中でもっとも多くの助成金を政府から得ているし、また彼らに与えられた数々の特権は少数民族や低所得層によって支えられていたという点でも非常に共通するものがあるのである」(訳書p.116)

 クーンツによれば、「大草原の小さな家」的なフロンティア家族や、優しいダーリンと豊かなライフスタイルを享受する専業主婦のカップルからなる「奥さまは魔女」的な家族は、「自助の精神」や情愛に満ちた結びつきを基盤にしているように見えながらも、実のところは当時の時代状況・社会制度に支えられてはじめて可能であった家族の姿にすぎないという。

 この本は、様々な事例をひきつつ、私的な領域としての家族というイメージが神話に過ぎないことを明らかにしている。プライバシー重視(多くの場合それは「家庭は男の城」というイメージで語られる)とは異なり、家族ほど公的な社会の介入をうけたものはない。そのように彼女は主張する。

 「家庭が社会の介入から自由であったことは一度もないのである。そしてこれぞまさに歴史のパラドックスなのであるが、伝統的神話であるプライベートで自律的な家族というのは、十九世紀の司法の積極的行動主義と二十世紀の国家統制が生み出したものといっても過言ではない。」(p.191)

 「十九世紀に入った頃は私生活と社会の境界線は厳密なものではなく流動的であった。家庭生活への介入は頻繁ではあっても、公的でも中央集権的でもなく、背景の異なる集団や個人によるものであった。十九世紀初期、家庭内のことがらと共同体のことがらとの間に従来より厳格な区別がなされるようになった。その結果家庭が外部からの干渉や社会規制から自由になったわけではないが、しかし確かに干渉の当事者や規制手段は変わることになった。過去一八〇年間の間に、私生活への介入を行う期間はますます公的なものとなり、特殊化し、中央集権的になった」(p.194)

 いささか引用が長くなってしまった。家族のプライバシーとは、このような公的なるものの私的領域への介入と平行して生み出されたフィクションであるとクーンツは喝破する。

 「結局のところ、国家が家庭の根本であるプライバシーを侵すという考え方それ自体が神話である。なぜならば、核家族というものはそもそも、外部の力が合成されて生み出されたものである場合を除いて、自律的、プライベートな単位としては存在しなかった。強力な核家族とはたいていの場合強力な国家が生み出したものであると言ってさしつかえない」(p.219)

 私たちはたいてい、家族というまとまりを、世知辛い世間の荒波をさけることができる、私的なシェルターのように感じがちである。しかし、実感がどうであれ、家族という存在がいかなるものであるのかは、住宅政策、労働市場、福祉政策、教育制度などなどの様々な社会的要因の影響を大きくうけている。

 もう、これまでのように家族を社会とは切り離された私的な領域としてイメージしたり、「理想の家族像」というものがどこかに存在すると夢想することをやめて、現在が「家族という神話」の終焉した時代であることを認めながら、家族的なつながりとそうでないつながりを含んだ社会的なネットワークのなかで、親密な関係を築き上げることをめざしたほうが良いのではないだろうか。と書くと、「友達を大事にしよう」的なありふれた話になるのだけれども。

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May 24, 2004

センセイの小言が通じにくいわけ

 程度や頻度の差こそあれ、教師に怒られた経験がまったくない人は少ないのではないか。忘れ物をしては怒られ、そのペナルティとして課せられた漢字の書き取りの文字が汚いということで怒られ、教師の細かな指摘を不満げな顔をして聞いているその態度が悪いと怒られ……。自分の学校経験をふり返ってみると、注意の浴びせ倒し、小言の絨毯爆撃といった感がある。

 叱られることも子どもの仕事、といったら大げさかもしれないが、とにかく学校の先生は様々なことについて、教育的な配慮をもって教え子を注意する。しかし、自分でも「これはまずいだろう」と思うくらいのものすごい悪事をやらかしたり、影響力の強い先生にびしっと言われたりしないかぎり、私たちはたいてい、教師の指導を「お小言」として軽く受け流してしまう。ある意味で、教師の影響力はかなり限定的なように思える。これはなぜなのだろうか。

 「大人と子どもの関係史」を提唱する教育史家の宮澤康人さんの研究は、歴史的な視点からこの問題について考えるヒントを提供してくれる。今日紹介するのは、「学校を糾弾するまえに——大人と子どもの関係史の視点から」佐伯胖他編『学校の再生をもとめて 1 学校を問う』(東京大学出版会、1992年に所収)という論文である(ちょっと古めの論文だが、宮澤さんの思考のエッセンスが凝縮されていて、文章も分かりやすいので一読をおすすめする)。

 論文の冒頭では、19世紀イギリスのジョン・パウンズなる人物が子どもたちを教える様子を描いた絵が紹介される。かれは貧困家庭の子どもたちに読み書き指導を行ったことで知られている人で、絵には靴の修理をしながら半身を子どもたちに向けて、読み方を教える姿が描かれている(「当時はこのように、いわば副業として教師をつとめることが珍しくなかった」p.166)。

 宮澤さんによれば、この「半身」の姿こそが、彼が中世の教師(子どもではなく自分の仕事のほうを向く教師)と近代社会以降の教師(子どもたちのほうを向いて指導する教師)の過渡期的な存在であることを示しているという。絵画の話を呼び水に、宮澤さんは次のような持論を展開してゆく。

 ことがらを単純化すれば、共同体が強かった中世社会の人間形成は徒弟制を基盤としたものであり、中世では教師=親方であった。極端に言えば中世社会には「教える技術」というものは不必要で、そこには「学ぶ=まねぶ」関係しかなかった。

 ところが、共同体が解体し、生まれによってではなく業績によって社会的な地位が決まる近代社会では、職業訓練と教育が分離し、子どもたちは社会から切り離された学校という場所で、将来のための準備をするようになる。もはや徒弟制で人を育てる時代は終わりをつげ、「教えること」を生業とする職業──教師という仕事──が出現するようになった。われらがセンセイの登場である。

 ところが、近代社会において、教師が以下に示す4つの点で、自己の仕事を遂行することの難しさに直面する。宮澤さんの議論を僕なりにまとめてみると、次のような理由で、センセイが子どもたちに及ぼす影響力は限定的なものとならざるをえない。

 1.近代の教師は徒弟制の親方ではない──子どもの実際の人生の
   先輩ではない──ために、学習の強力な動機づけや権威的な関
   係を産み出すことが困難である。

 2.他方で、学校の教師は家族(親)でもないために、感情の絆に
   もとづく価値形成の影響力も持ち合わせてない。

 3.学校教育制度では、学級集団が均一的に組織化されているた
   めに、教師は、自然発生的な年齢混交の子ども集団に匹敵す
   る強い凝集力と感化力の助けを借りることもできない

 4.近代社会では「教えること」が具体的な場面・文脈から切り離
   され、その担い手である教師が専門的な職業として確立してい
   るために、教師たちは、現実の裏づけなしに大人世代を代表し
   て子どもに向き合う「特殊な大人」となってしまった。

 そう、学校のセンセイたちは、親でもなく、人生の先輩でもない(徒弟の親方でもない)ために、子どもたちが自然に言うことに従うことをはなから期待することができないのである。異年齢集団がもつ教育力に期待することもできないし、さらにいえば、教師たちはいつも「世間を知らない特殊な大人」と社会からまなざされるなかで、社会に入るための準備を子どもたちに対して行わなければならない(そのように「教えることの専門職」が出来たのは、社会全体の合意があってのことなのに!)。教師たちは、大きなハンデを背負いながら、日々、子どもの指導に追われているのである。これでは小言も通じにくいわけだ。

 実のところ、宮澤さんが指摘したことは、小言が効くか効かないかという問題を超えた射程をもっている。大人と子どもの関係の特殊なあり方として、教師と生徒の関係を捉える視点は、現代の教師が抱える困難が、個人的な力量の問題に還元し得ない時代の刻印を受けていることを明らかにしてくれる。でもまあ、「歴史にまなぶことは大きい」と小言を教師がいっても、たぶん子どもには通じにくいんだろうな。

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May 21, 2004

幽霊駅へようこそ

 ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックの『危険社会』(法政大学出版局、1998【原著は1986年】)は、「リスク」をキーワードに現代社会の特質を描きだした名著である。

 ここでいう「リスク」(Risiko, risk)とは、社会の外部からやってくる危険(Gefahr, denger)とは異なり、社会が自ら招いた否定的な帰結のことを意味する。ベック自身があげている例としては、「人間が知覚できない放射能…(中略)…空気、水、食品中の有害物質と、それが及ぼす植物、動物、人間に対する短期的、長期的影響」(p.28)などが典型的な「リスク」である(ちなみに、訳書ではリスクに「危険」という訳語があてられていて、非常に紛らわしい。訳者あとがきでも少し触れられているように、邦題は「リスク社会」にしたほうが良かったと思う)。

 もう一つの特徴は、リスクは未来に存在する、ということである(危険もそうなのだけれど、リスクの場合は「未来の不確かさ」がいっそう切実な問題となる)。リスクは直接目に見ることも手で触れることもできない。それは、専門的な知識を使うことによってはじめて予測・コントロールが可能となる。だが、それが必ずしも成功するとは限らないところにリスク問題の難しさがある。

 同書の基本的な筋立ては、近代化が徹底された結果、私たちの社会は「リスク社会」になってしまった、というものである。リスク社会とは、富ではなく、リスクの分配が重要な政治課題になる社会である(これついては批判もあって、リスクをめぐるコミュニケーションは政治的なものだけに還元できないという意見もある)。そう、狂牛病の影響で牛丼が姿を消す現代日本も、リスク社会のひとつの姿なのだ。

 それはさておき、ここからが本題である。リスク社会の到来とともに、教育(とくに職業教育)が果たす役割はがらりと変わってしまうとベックさんは主張する。面白い部分なので、引用してみよう。

 「ほんの少し誇張すれば、教育システムのなかの、失業に見舞われた部分が、今日ますます幽霊駅に似てきていると言うことができる。その幽霊駅では、列車は、もはや時刻表に従って行き来していない。それにもかかわらず、すべての事柄が、古い基準に従って行われている。

 旅立とうと思っている者がいるとしよう。家にとどまることが、未来がないことを意味している場合に、家にとどまりたいと思う者がいるだろうか。彼は、列車の切符が売り渡される窓口に、長蛇の列をなして並ばなくてはならない。

 列車は、たいていどのみち満杯である。あるいはもはや、すばらしい目標の方向にむかっては発車しない。

 あたかも何も起こらなかったかのように、文部省の役人は、切符売場の後ろで、それが官僚組織上の非常な浪費であるにもかかわらず、どこへも行くあてのない切符を配っている。そして、彼らの目の前にできている長蛇の列を「威嚇」して追いたてる。「切符がなければ、列車に乗ることは決してできませんよ」。そしてひどいことに、彼らの言うことは正しいのだ」(訳書、pp.295-296。引用者が適時改行している)

 教育は、輝かしい未来を保障するものではなく、キャリア形成上のリスクを避ける道具になりさがってしまった。しかもリスクはその定義上完璧なコントロールが不可能なので、「切符」を買ったとしても、学歴インフレや若年労働市場の縮小(これもまたリスクである)によって、「列車」に乗れるとは限らない。いや、もしかするとそもそも列車など来ないかもしれない。なぜならそこは「幽霊駅」だから……。なんとも陰鬱なイメージである。でもこの寓話は、教育の現場に携わる人々にとってあるリアリティを感じさせるのではないか。

 しかし、ベックさんはただペシミスティックに現状を嘆いているだけではない。専門家でも見通しがたいリスクが存在するということは、誰もリスクを正確に算定し・コントロールすることが不可能だという意味で、素人が口出しできる領域が拡大していることでもある。さらに、かりにリスクが現実化したならば、その時に影響を受ける人の範囲は非常に広範になるために、これまでだったら協力することさえ想像しえなかった人々が、特定のリスクに対処するために手を取り合う可能性が生じてきている。

 ベックはそこに希望を見いだし、リスクを軸に新しい共同性が形成され、生活をめぐるポリティクスが顕在化する「サブ政治」の場があちこちに形成されることに期待している。日本社会でその可能性がどれほどあるのかは実際のところ分からないが、私たちもずっと幽霊駅で立ちすくんでいるわけにはゆくまい。

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May 19, 2004

進路は続くよどこまでも

 森田洋司編著『不登校─その後』(教育開発研究所、2003年:同書は「教職研修」の総合特集として刊行されている)は、付録のCD-ROMに収録された『不登校に関する実態調査─平成5年度不登校生徒追跡調査報告書』(2001)を要約したダイジェスト版で、おまけのほうが充実しているというビックリマンチョコ(古いな)のような書物である。

 たぶん専門的にすぎる学術研究の報告書を刊行しても採算が取れないので、一般向けの内容にリライトしつつ、もとになった報告書を電子データとして添付して専門家のニーズにも応えられる構成にしたのだろう。こういう出版方法はあまり目にしたことがないのだが、専門書と啓蒙書の機能を同時に満たしていて、結構面白い試みである。
 
 それはさておき、本書の一番の目玉は、タイトルに掲げているとおり、不登校経験者を対象に行った大規模な追跡調査の結果が分かる点である。

 文部省(当時)の委託をうけ、編著者の森田さんを中心とする調査グループは、平成5年度に「学校ぎらい」を理由に、年間30日以上欠席した子どもたち(当時中3)を対象にした追跡調査を実施した。調査が行われたのは平成10年〜11年なので、当時、公立中学の3年生として在籍していた子どものうち不登校を経験した人が、5年後に成人した時点でどうしているかを調べたことになる。

 ちなみに、「学校ぎらい」というカテゴリーはむかし『学校基本調査』で用いられていたもので、これを理由に年間30日以上欠席した子どもたちが、公式統計上の不登校児とされている(平成10年度から「学校ぎらい」は「不登校」に変更された)。

 この調査プロジェクトは、A調査(基礎調査)、B調査(郵送によるアンケート調査)、C調査(電話によるインタビュー調査)の三つの調査から構成されている。それぞれの調査の有効回答数、調査協力者、回収率は以下の通りである。


 A調査:19286人/25992人(74.2%)、
 B調査:1393人/3307人(42.1%)
 C調査:467人/952人(49.1%)
 【数字は、有効回答者数/調査協力者数(回収率)】(同書p.52より転載)

 有効回答者数が調査をへるごとに少なくなっているのは、A調査で協力に応じた人がB調査の対象となり、B調査で協力に応じた人がC調査の対象と、はじめに広く網をかけ、協力してくれる人に詳しいことを聞いてゆくというスタイルで調査を進めているためである。おそらく、不登校経験という当事者にとってはセンシティブな出来事について、統計分析にたえうる信頼性のあるデータを集めるという目的で、こうした多段階的な調査手続きを取ったのだろう。報告書では、各調査対象者の中3当時の欠席日数の分布状況を比較して、サンプルに大きな偏りがないことを確かめたうえで分析が行われている。

 ……と、ここまで書いた時点で(ノートパソコンとじぶんの)電池が切れそうになったので、報告書を読んで興味深かったことを、箇条書きで4点だけ紹介したい。

 1.不登校問題は「心の問題」ではなく「進路問題」であると
   いう見解が明示されている

 2.B調査で「小中学校のころ不登校で学校に行けなかったこと
   を今考えるとどのように思いますか」と尋ねたところ、
   「行けば良かった・後悔している」という回答が37.9%
   「仕方がなかった・どうしようもなかった」が32.9%
   「むしろよかった」が29.2%という結果が出ていたこと

 3.同じくB調査で、現在は就業も就職もしてないと回答した
   人が22.8%存在する。他方で「正社員」が22.5%、
   就学している人も27.1%いる。

 4.中学卒業時/(現在までに)最も長い状態/現在の状態の
   3時点でキャリア・パターンを分類すると、各時点で、仕事
   につく・学校に通うようになった人は、その後も社会のなかに
   所属する場がある割合が高く、そうでない人はその後も所属が
   ない状態になる割合が高い(キャリア形成の良循環・悪循環が
   みられる)

 これらの結果を見ると、中学時代に不登校になった人のすべてが一般にイメージされているような「ココロ系で悩む人」ではないこと、不登校経験を後悔している人も多いけれど、肯定的に捉えている人もけっこういること、就学・就職で他の人たちと比べると不利になるという現実はあるものの、将来が閉ざされているわけでは決してないことが分かる。

 他方で、良い機会にめぐりあえず、じぶんの所属する場所を見いだすことができなかった人は、その後もしんどい状態にある確率が高く、いわゆる「ひきこもり」に近い状態だと推察できる層が、多く見積もるとかつての不登校経験者の2割くらいいることも事実である。

 いずれにせよ、「進路問題」として不登校問題を考える必要があるという主張は同感である。そのように見ると、不登校問題は「不登校」児という「特殊」な人だけの問題とみるのではなく、すべての若い人たちが直面する進路問題のバリエーション──登校・不登校問題──として考えたほうが良いのかも知れない。

 でも、最近の行政の動きをみると、「不登校」向けの教育サービスをパッケージ化して提供する傾向が強いように思える。フリーター問題もそうだけれど、「大人になることの困難」をめぐる諸問題は、むやみに特殊なカテゴリーを立てて対策を練るよりも、若い人々全体の問題として考えるべきではないだろうか。


 もっと興味があるかたは、報告書の概要が掲載された文科省のHPを紹介しますので、そちらをのぞいてみてください。(調査の目的調査結果の概要)。

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May 11, 2004

運動場で、日が暮れて

 教育社会学には「トラッキング」(tracking)という専門用語があるらしい。これは陸上競技場のトラックからの類推で考案された言葉で、能力別・適性別に、生徒をグループ分けすることを表している(運動場にひかれているあの線です)。ちょっと辞書を引くと、次のように定義されている。

 「【トラッキングとは:引用者】広義には、学校内だけでなく学校間や学校制度全体に存在する生徒のグループ分け、またグループ内の同質化をもたらすあらゆる形のシステムをいう。同一トラック内では、生徒が同質的なため効率的な教授学習が期待できるが、その競争的な選抜性や不平等性に問題があることが指摘されている。すなわち1)トラックを構成する生徒の社会経済的な出身階層の偏り、2)トラックのハイアラーキカルな構造、3)生徒のトラック中途変更の困難性、4)下層トラックにいる生徒のその後の機会の制約や締め出し、5)下層トラックに属する生徒に対するマイナスのレッテルづけ、などの問題がそれである」(項目「トラッキング」【丸山文裕 執筆】日本教育社会学界編『新教育社会学辞典』東洋館出版社、1986年)

 この用語は、もともとはアメリカの中等教育研究で使われていたようだが、日本では、その意味を広義にとって、主に入試難易度に応じた高校間の序列のことを指すことが多い。あまり気持ちのいいことではないが、いわゆる「進学校」というトラックに入った生徒たちは銘柄大学への入学へ水路づけられ、「底辺校」と言われるトラックに振り分けられた生徒は、職業世界に向かってひた走るというわけである。そこではトラックごとに共通の態度や意識──学校格差に応じて形成される高校生文化──が醸成されるという。

 戦後の日本では高等学校が大衆化するなかで、一元的なトラッキング・システムが確立したというのが定説である。もちろんそこには、先の辞書で5点にわたって指摘された問題点があった(逆に、日本型のトラッキング・システムは、煽りと冷却をほどよく塩梅することで、階層差を超えてほとんどの生徒たちを競争にコミットさせることを可能にした。そのことを指摘し、日本的な仕組みを評価する議論もある)。

 前置きが長くなってしまった。樋田大二郎ほか編著の『高校生文化と進路形成の変容』(学事出版、2000年)は、高校間のトラッキング・システムがもっとも堅固だった70年代末に実施された調査を、18年後に同じ学校を対象に実施した結果をまとめた本である。

 樋田さんたちの研究グループは、かつて1979年に東京大学教育社会学研究室が実施した「高校生の生徒文化と学校経営」調査を、97年にほぼ同一の対象・方法で実施している。『トラッキングの弛緩』をキーワードに過去と現在の調査データを比較することで、高校生の文化とかれらの進路形成に変容を探るというのが、今回の調査の目的である。

 本書では、70年代は高校生たちの生活を強力に枠づけていた学校ランクの影響力が相対的に低下しているという仮説(『トラッキングの弛緩』仮説)をもとに、高校教育改革、高校格差構造、進路選択、学習・進路指導、教師のまなざし、生徒文化など、それぞれの観点から分析が進められてゆく。

 ところが、終章の「おわりに」で率直に書かれているように、97年調査データはこの仮説にぴったりあてはまるものではなかった。調査で得られた知見の要約もかねて、この点について触れた本文中の言葉を引いてみよう。

 「残念ながら、トラッキングの弛緩は、現象としても、あるいはメカニズムの変化としても満足に論証できたとはけっしていうことができない。
 たとえば、学校による生徒指導、進路指導、学習指導組織は全体としてみれば学校階層間の差異が小さくなる方向へ変化してきたが、別の部分ではよりいっそうランク別の差異が際だつようになった。進路形成面でいえば、かつて就職者が大勢を占めた専門高校において多様な進路をとる生徒が出現するようになった。この意味ではトラッキングは弛緩したといえるものの、学校階層の上層部分ではむしろ四年制大学へと水路づける格差規範が強化されている。生徒の行動様式と意識に関しても同様に、単純なトラッキング弛緩仮説はあてはまってはいない」(p.216)

 ただし、今回の調査から何も得られなかったわけではない。確かに「トラッキング」の力はいまなお根強く存続している。だが、視点を広げて、トラッキング・システム全体(高校教育全体)を比較してみると、そこには大きな変化が生じているのである。本書では、高校教育全体に生じている重要な変化として、次のような点が指摘されている。

 1)「どの学校ランクをとっても相当程度学習時間が減少している」(p.218)
 2) 学校ランクに関係なく、生徒達が学校生活から離脱傾向にある(同上)
 3) 教師まなざしが「『問題視』型から『許容』型へ」(同上)変化している。
 4) 教師の指導が学習・受験指導に特化し、校則・部活・行事指導から撤退している(同上)
 5)「社会階層の影響力がより顕在化してきた」(p.219)


 これらの変化は、なんとなく感覚では分かるような気がする。だが、こうした「今時の若者」「近頃の学校」の様子をきちんとした時系列的なデータを用いて描きだしている点に、この研究の地道な成果がある。

 現在の高校教育は、薄暮のなかで競争路が見づらくなった運動場のようだ。コースは分かれていて、いちおうそれに従ってみんな走っているけれど、以前のように熱心に競いあっているようには見えない。自分が走る道がどこに続いているのかも定かではない。階層分化の進行がささやかれている昨今、日本の学校のトラッキング・システムはどこに向かっているのだろうか。97年調査のその後が知りたいのは、僕だけではないはずである。

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May 09, 2004

感情のねうちを勘定する

 ごくたまに、コンビニやファミレスなどで、あまりにも無愛想な店員に出くわして呆然とすることがある。そこで買い物や食事ができさえすれば当初の目的は果たせるはずなのに、丁寧な接客を受けないと僕たちは損をした気になる。これはなぜだろうか。

 そう感じるのは、商品やサービスを購入する時には、「柔らかな物腰で接してくれる」「丁寧な扱いをうける」といった、「接客」という場面にふさわしい態度を店員が示すことが暗黙の前提になっているためだろう。もちろんそこには、感情を一定の幅でコントロールすることも含まれている。スマイルもサービスのうちというわけだ。

 このように、同一の商品やサービスを購入する際に、愛想良くされる場合とそうでない場合では損得勘定が違ってくるということは、「感情」があたかも一つの商品のように売り買いされていることを表す事実である。某ハンバーガーチェーンでは「スマイル」がタダということになっているが、実際は従業員に接客のトレーニングをしているはずなので、訓練にかかるコストが商品代に上乗せされているに違いない。

 ホックシールド『管理される心:感情が商品になるとき』(世界思想社、2000年【原著は1983年】)は、「感情労働」という概念を提起することで、現代社会における心の商品化を描きだした力作である(その後、同書の議論を一つの呼び水にして「感情社会学」というジャンルが独自の展開を見せている)。本書では「感情労働」という用語を次のように定義している。

 「私は「感情労働(emotional labor)」という用語を、公的に観察可能な表情と身体的表現を作るために行う感情の管理という意味で用いる。感情労働は賃金と引き替えに売られ、したがって<交換価値>を有する。」(訳書p.7の注記より)

 ホックシールドによれば、感情とは「心」から自然にわき上がるものではなく、社会のなかで共有されたルール(感情規則)に従った表現である。私たちは私的な領域のなかで親しい友人に対して様々な感情を表出するが、時には公的な場面でお仕事として、特定の感情を示すことを要請されるのである。

 この本の面白いところは、フィールドワーク(密着取材的な調査法)の手法を用いて、「客室乗務員」と「集金人」(借金取り立て業)というまったく対照的な二つの職業に従事する人々を調査して、どちらの仕事にも「感情労働」が存在することを指摘した点にある。両者の仕事を対比した箇所を引いてみよう。

 「企業社会の一極であるこの世界【客室乗務員が従事する航空業界:引用者】では、心からの温かさが商品であり、無愛想さや冷淡さは問題とされるのである。他方、もう一方の極【集金人の業界:引用者】では、金銭の請求が発生し、たとえ顧客の自尊心を完全に犠牲にしようとも、集金しなければならない。この集金劇の終盤にふさわしいのは心からの疑いの念であり、温かさや愛想の良さは問題とされるのである。これらの仕事の一方ではうまくやれない者が、他方ではすばらしい働きをするかもしれない」(訳書、p.169)

 そう、債権者を精神的に追いつめて、首尾良く借金を回収しようとする貸金業者たちもまた、ネガティブな感情をコントロールしながら仕事をしているという意味では「感情労働」に従事しているのである。

 話は変わり、教師の世界では「教師は子どもを怒るのではなく叱らなければならない」という格言(?)が語られることがある。ここでの「叱る」も、教育的効果を考えた上での感情の表出であり、一種の感情労働であると見ることができる。「褒めることが子どもを伸ばす」というフレーズも、教師にどのような感情表出が求められているのかを伺わせるものである。

 このように、先生方の日々の仕事を「感情労働」という視点から捉えると、新しい発見があるかもしれない(実は、ハーグリーブスという教育社会学者が「感情労働」という視点から教師の仕事を分析した論文がある。これについてはいつか日を改めて紹介したい)。

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May 08, 2004

ティーチャー・イン・ザ・ライ

 「教師の仕事は楽でいい」というイメージは、だいぶ払拭されたような気もするが、いまだにそう思っている人も多いようだ。だが、それは実際の姿とはだいぶずれている。

 「教師のバーンアウトと多忙」(苅谷剛彦・志水宏吉編『学校臨床社会学』放送大学大学院教材、2003年に所収)によれば、教師が学校で過ごす一日は分刻みのスケジュールで進行している。かれらは休み時間などの細かい時間を使って、複数の仕事を同時並行的にこなさなければならない。学年の打ち合わせ、各種行事のための準備、書類の整理、消耗品のチェック、印刷物の作成、銀行振り込みの代行…。この論文には実際に先生が一日にこなす仕事の数とその具体例が示されているが、それを見ると教師は本当に大変なのだなあと思ってしまう。

 なにせ、先生たちが周囲に邪魔されず、自分の裁量で仕事をやりくりできる場面は、実は授業時間中だけだったりするのだ。とにかく忙しいのが教師の常である。

 そんな教師の仕事が、近年大きく変わろうとしている。すでに1980年代のアメリカやイギリスでは、民間企業と同様に、教師もその仕事の成果をきちんと評価して、各人の業績に応じて処遇を変えようという動きが起こったが、日本でもこうした「業績主義給与」(メリット・ペイ)を導入しようという政策動向が見られるようになったのである。

 勝野正章『教員評価の理念と政策─日本とイギリス─』(エイデル研究所、2003年)は、その表題からも分かるように、日本(とりわけ、全国に先行して新しい人事考課制度を導入した東京都)と英国における教育評価制度を比較検討した本である。両国の制度構想とその実際がコンパクトにまとめられていて、なかなか便利だ。今回は、この本のなかから、教員評価制度について、いくつか興味深い事実を紹介したい。

 1)業績に応じて教師の給与に格差をつける仕組みは、この制度が想定していたような「競争による質の向上」をもたらすとは限らない。

 勝野さんによれば、80年代にいち早くメリットペイを導入したアメリカでは、結局ねらったような効果がみられず、失敗に終わってしまったという。向こうの研究者は、制度の欠点を次のように指摘している。孫引きになってしまうが、ちょっと引用してみたい。

 「メリットペイは個人間の競争を助長し、職務上の協同性を脅かす。個人の業績に基づく報酬を与えることは、その個人にとっての最前の動機づけにはなるが、他者にとっての利益を助長する動機づけにはならない」(p.14。Odden&Kellly論文からの引用)

 以前の記事で書いたように、そもそも教育的コミュニケーションは不安定な基盤の上で成立しているために、その成果を正確に測定することが難しい。

 例えば、家族や子どもが学校を選択できるのであれば、評判の良い学校にははじめから能力の高い子どもたちが入ってくるだろうし、そうでない場合も、学校が位置する地域の特性によって、そこに通う子どもの特徴はかなりの程度決まってしまう。学校で達成されることのどこまでが教育の成果で、どこからが子どもや家族、あるいは地域のあり方に帰因するものなのか、それをきちんと区別して捉えることは相当に困難である。

 また、「教育の成果」が、いつ、どのように現れるのかもはっきりしない。みなさんは、学校で習ったことが「役に立った!」と実感できたのは、だいぶ後になってからということはないでしょうか。人によって、教育の成果を実感できる時期やその中身はそうとうに違ってくるであろうことは、自分のことをちょっとふり返ってみるだけで明らかである。

 そのような特殊な条件のもとで、民間のようにシビアな業績主義をやりさえすればすべて上手くゆくというのは、やや楽観的に過ぎるのではないだろうか。

 2)日本でも英国でも、処遇の違いを生み出すような業績評価のあり方について、大多数の教師たちは反発を感じている。

 この本では日本と英国のそれぞれで実施された教員調査の結果が紹介されているが、いずれの調査でも、教師たちの多く(日本も英国も70%前後の教師たち)が、新しい業績評価のあり方について否定的な意見を抱いている(ただし、両者はまったく違う調査なので、結果を単純に対照させることはできない)。まあ、誰だって自分の不利になるような制度に対しては、いい気持ちがしないものだが、それにしても現場の人間の7割が反対している仕組みを導入しても、かえってやる気をそぐだけのような気がする。

 ただ、勝野さん自身は、評価の仕組みを変えることについて、完全に否定的なわけではなく、うまくやり方を工夫して、教師達が自ら成長するための足がかりとなるような評価のあり方を考えてゆくことが大切だと主張している。具体的には、研究者と協同で教育実践をふり返る活動や、評価活動を通じて生徒や保護者と対話し、より良い学校をめざしてゆく試みなどが提起されている。

 本書を読み進めていると、ちょっと教職員組合のスタンスに肩入れしすぎじゃないか、と感じる点もあるが、これはまあ、新しい試みには相当に不備があって、現場の教師たちの負担が増加する一方であることを考えると、いたしかたないことだろう。

 いずれにせよ、日本の教師の仕事に制度レベルで生じつつある変化を捉えるには良い本なので、興味があるかたはどうぞご覧ください。先生たちの仕事は、ライ麦畑で子どもが崖から落ちないように見張っていればそれでOKというわけにはいかないということが、よく分かると思います。

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May 03, 2004

学校から遠く離れて

 「岩波講座 現代社会学」の12巻『子どもと教育の社会学』(1996年)を久しぶりに本棚から取り出し、ぱらぱらとめくってみた。と書くと、まるで全巻を持っているようだが、実はこの巻しか手元にない。

 社会学の講座ものは、東大出版会からも出ているが、岩波のこのシリーズは、学界の定説をばしっと掲載するというよりは、個性的な執筆陣がそれぞれのじぶんの持ち味を活かして、現代的な課題にとりくんでいる点が特徴的である(ちなみに、東大出版会のシリーズは「講座社会学」。「現代」があるかないかの違いは、かなり大きい。二つの講座の各巻のタイトルと執筆者を比較すると面白い)。

 講座本の使い方は、初学者が関心のあるトピックを取り上げた巻を通読して、知りたい分野の基礎的な議論をつかむ、というのが一般的だと思うのだが、このシリーズに関していえば、興味のある箇所だけをつまみ食い的に読むという楽しみかたもできる。想定している読者層も、岩波のほうが東大出版会よりも広いのではないか。

 ここで話を『子どもと教育の社会学』に戻そう。こうした事情があるために、この本に収められた論考の水準にはばらつきがある。より正確に言えば、アカデミズムの作法にこだわることなく、著者が持論を率直に書いているために、読み手の好みによって評価がくっきりと分かれる論文が多い。取り上げられた主題も多岐に渡っている。

 それでも、この本を通読した者は、全体に共通したトーンを感じることができるだろう。まず、そこに収録されている論考の多くは、近代以降の教育(とりわけ、学校教育)でマージナルな立場におかれた人々(障害者、国外からやってきた「越境者」、不登校の子ども、女性、「被差別部落」の人々、あるいは「子ども」なる存在)を取り上げている。

 また、それぞれの書き手が議論を立てるときに想定する時間的・空間的な比較の幅も広い。古代ギリシャから現代までの時間軸、「わたし」の内面というミニマムな空間にはじまり、農村と都市の対比、さらにはアジア、ヨーロッパ、アメリカとの国際比較にまでいたる空間軸と、様々な比較軸の線上に「現代日本の教育」をめぐる様々な問題をおき、そこで見えてくるものについて考えてゆく、というスタンスを、それぞれの論考に見ることができる。

 これらはすべて、現在日本の教育が前提としている<学校で、教師が、子どもに、「伝えるべきである」と公定された知識を伝達する>営みを、その外側から相対化しようとする試みである。

 終章の「overview」で教育学者の汐見稔幸さんがやや乱暴な手つきで要約しているように、戦後の教育やその把握を試みる理論は、教育に対する底抜けの楽観主義(戦後〜70年代)と、その反転としてのペシミズム(70年代以降)というかたちで推移してきた(p.210)。

 この本は、現在の教育が起きている現場から、あえて遠くに離れつつ、でも、完全にそこから離脱しないことによって、こうした不毛な「振り子」運動から逃れようとする試みに満ちている。マージナルな領域への着目や、時間的・空間的な比較という手法は、こうした問題意識に裏打ちされたものである。

 ただ、この本が出版された当初と比べると、日本の教育がおかれた状況はかなり変わってしまった。90年代末に「学力低下」をめぐる論争が再び勃発し、その影響を受けつつ、また、それとは違う文脈のなかで行政サイドから様々な「教育改革」のプランが提示されている現在、私たちは「学校教育のあり方」そのものを選び直すことを迫られている。

 だが、それだからこそ、学校から遠く離れた地点から教育について考えた同書の議論を再考する必要があるのではないだろうか。

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May 02, 2004

モダンガールの夢はいずこに

 「女の子には出世の道が二つある。立派な職業人になることと、立派な家庭人になること。(中略)したがって、女の子はいつも「二つの出世の道」の間で揺れてきた」(p.10)。

 これは、斉藤美奈子『モダンガール論』(文春文庫版、2003年)の冒頭の一文だ。「欲望史観で女の子の近代を読む」(p.11)というコンセプトで、20世紀日本の女性たちが夢想した人生行路とその実際をたどる、というのがこの本のねらいである。

 この本を読み進め、20世紀初頭から日本社会であこがれとされていた女性の生き方をたどり直すと、意外な事実を発見する。

 例えば、女性が家事・育児に専念することをよしとする「良妻賢母」思想は、これまでにない斬新でモダンな考え方だったという。明治の末期に登場した「(高等)女学校」は、「花嫁学校+カルチャースクール」(p.29)という性格を有しており、家事と教養という二本柱の教育を通じて、この新しい20世紀の思想を広く浸透させていった。

 また、大正期になると、バスガール、ショップ・ガール、タイピストや電話交換手など、女性向けの近代的な職業が次々と登場し、人々の羨望を集めるようになる(「職業婦人」になりたい!)。ここに「二つの出世の道」がでそろったわけだ。

 だが、当然ながらこうしたあこがれの仕事は需要が限られている。実際に外で働く女性の多くは、生糸工場などで長時間・低賃金で勤務する「女工」か、「専業主婦」の家で住み込みで働く「女中」であった。また、職業婦人にあこがれて都会には出たもののうまくゆかず、夜の世界で生きる女性もいた。

 さらに言えば、高度成長期以前の日本社会ではかなりの人が農村で暮らしていた。大多数の女性は、外で働くこともなく、家族で農業に精を出していたのである。なかでも「農家の嫁」は、家事と農作業の両方に追われ、息つく暇もなかった。

 こうした状況のなか、家事だけに専念できる「専業主婦」や、都会で働く華やかな「職業婦人」は人々のあこがれであり、「女学校」は、これらの輝かしいポジションにたどり着くための手段として捉えられていた(もっとも、女学校にゆく人ちは、閉ざされた世界で少女時代を送ることそのものが目的でもあった。いわゆるモラトリアム期の誕生ですね)。

 学校に通って出世したいという気持ちは男性と同様だが、その「出世」の中身が違っていたのである。「女学校」という女子向けの進学ルートは、終戦後は短期大学にかたちをかえるが、そこで求められていることや人々が抱いていた期待は、これまでとそう大きく変わるものではなかった。「職業婦人」は「BG」、そして現在も使われる「OL」と呼ばれるようになる。高度成長期をへて、これまでよりも多くの人が「二つの出世の道」を手にした。だが、モダンガールはどこか憂鬱そうだ。それはなぜだろうか。

 同書は、近代日本の「階級差別と性差別」(p.175)を描きだした本でもある。明治期に始まりバブル経済が華やかりしころまで「二つの出世の道」の歴史をひもといた後、斉藤さんは終章で次のようにまとめている。

 「賢明なあなたは、とっくにお気づきだろう。戦前戦後を通じて女の子たちをとらえた出世の夢は、「男は外/女は内」という性別役割分業社会の上に成立したものである。
 である以上、職業人と家庭人という二つの道は、好きな方を自由に選べる「選択肢」ではなかったのだ。若い間は職業婦人→適齢期をすぎたら家庭婦人というように、仕事と家庭は年齢で棲み分けられてきた。あるいは、無産階級は労働婦人/中産階級は家庭婦人というように、それはもともと階級(階層)で棲み分けられてきた」(p.299)

 ここまでの紹介を読んで、「深刻な問題を真面目に論じている本だな」と感じた方がいるかもしれないが、それはひとえに僕の要約の仕方に問題があるためだ。この本の魅力は、そのディテールにある。当時の社会を生きた様々な女性たちの声と、それに対する斉藤さんの(愛情あふれる?)つっこみはかなり面白いだけでなく、身につまされもする。

 私だっていい暮らしがしたい!という視点から歴史を叙述する「欲望史観」は、女性の「夢と現実のはざま」(これは3章のタイトルでもある)を率直な言葉で描きだしていて、彼女たちが、じぶんたちの置かれた状況にただ甘んじるのではなく、そこでどうやったら楽しく生きることができるのかを模索する存在だったことを教えてくれる。

 同書は、女性史やフェミニズムの立場にたつ家族社会学の知見もふんだんに盛り込まれていて、この分野に興味がある人にとっては、格好の入門書でもある。(特に男性の)「出世の道」があやしくなった今だからこそ、それが輝いていた時代を、女性の視点からふり返ってみることに意味があるのかもしれません。

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April 30, 2004

学問は身を立てる財本?

 きょうは荒井一博『教育の経済学・入門』(勁草書房、2002年)を紹介したい。

 「教育と社会はどのように結びついているのか?」「そもそも人はなぜ教育を受けようとするのか?」といった問いに、経済合理性の観点から答えることを試みる「教育の経済学」という分野がある。

 同書は、この領域を専門に研究を続けてきた著者の荒井さんが、一般向けに分かりやすく書いた啓蒙書(って言葉はもう死語かもしれないが)である。数式がほとんど使われていないため、経済学を勉強したことがない人でも「教育の経済学」の問題意識と、現実へのアプローチの方法を知ることができる。

 この本は三部構成になっていて、僕にとっては平易なことばで「教育の経済学の基礎的な考え方」を紹介した第一部が一番面白かった。場合によっては、ここだけ読んでもいいかもしれない。

 ■「教育の経済学」の二大理論
 
 同書によれば「教育の経済学」には競合する二つの理論があり、これを理解すれば、この分野の基礎的なところはつかめるという。以下に抜き書きしてみよう。

 1)人的資本論

  「人間が作り上げたり蓄積したもので、長期間にわたって便益(収益・利益)を生み出すものを経済学は「資本」と呼ぶ。(中略)この定義に従うと、教育によって身につけた知識や技能も資本と見なすことができる。(中略)教育によって蓄積された知識や技能は「人的資本」と呼ばれる。また、教育は人的資本の量を増大させる活動なので、「人的資本投資」活動とみなすことができる」(pp.14-15)
 
 教育を受けることによって、貯金をするのと同じように、便益を生み出す「知識や技能が蓄積される、というのがこの理論の主張である。

 経済学によれば、人間は合理的に行動する(と仮定して物事を説明する)。私たちは、まるでファイナンシャル・プランナーのように、教育を受けるためにかかるコスト(教育費や、教育を受けるあいだに、他のことをしていたら受け取れたはずの便益)と、人的資本によって得られるベネフィットを比較して、(じぶんや、子どもに対する)教育行動を選択するというのが、人的資本論の枠組みである。

 それだけでない。個々人に支払われる賃金が、教育年数によって決まることが多いことも、この理論によって説明することができる。高卒よりも大卒の人のほうが給料が高いのは、教育を受けることでその人の生産性が向上したから、という理屈になる。若い人の給料が安く、歳をとると上昇するのも、若いあいだは企業内で教育を受けるためのコストが給料から引かれていて、歳をとると教育の成果によって生産性があがるために、それを反映して賃金が上昇するというわけだ。
 なるほど、明治国家が「学問は身を立てる財本」と主張したのはこのことだったのか。

 2)シグナリング理論
  
 と、納得するのはまだ早い。人的資本論の多くは、便益を個人の生産能力と捉えて、<高学歴→生産能力の増大→賃金の上昇>という因果関係を想定しているが、だいたい「生産能力」「生産性」ってそう簡単にはかれるんですかい? 例えば、いまの日本は大学進学率が上昇し、だいたい2人に1人は大学に進学しているけど、それに見合うかたちで以前より生産性が上昇しているかというと、とてもそうは見えない。なんで?

 こうした疑問に応えるもう一つの説明図式が「シグナリング理論」である。この本ではシグナリング理論の基本的な考え方が次のように説明されている。ちょっと長めになるが、この考え方の微妙なところを伝えるために、つらつらと引用してみよう。

 「あることに関する情報を得たいが直接には入手できないとき、われわれは容易に入手可能な間接情報からそれを推測することがよくある。例えば、初対面の人の性格を判断したいときに、その人の服装を観察する。話し手が真実を言っているかどうかを判断したいときに、その表情や体の動きを観察する。
 観察される側からこれらの問題を考えてみよう。初対面において自分は悪い性格の人間ではないことを相手に知ってもらうために、身なりを整えて会うようにしている人は多いだろう。この場合は服装によって自分の性格に関する情報を相手に伝達しているとみなせる。つまり服装がシグナルになっている。(中略)
 これと同じように、学歴が能力のシグナルになるというのがシグナリング理論の主張である。それによると、個人の能力は他者には判断しにくいので、企業が新入社員を採用するときは学歴を基にしてそれを推測し、採用や処遇を決める。求職者の立場からいうと、自分に能力があることを企業に知らせるために高い学歴を取得する。シグナリング理論の基本的な特徴は、大学が学生の能力をまったく向上させなくても、個人は自分の高能力を企業や社会一般に知らせるために大卒学歴を得ようとするというところになる」(p.70)

 シグナリング理論は、人的資本論のように、教育→生産性の向上という見方を取らない。人は能力を上げるために教育を受けるのではなく、スーツをびしっと着て信用を得られるのと同じように、「自分には能力があるんですよ」というシグナルを送るために教育を受けているのだ、という風に見るのが、この理論の特徴である(逆に、教育の違いによって処遇を決める側も同じように、「○○大学出てるんだから我が社に充分に貢献してくれるだろう」と見なすわけである)。

 もう一つ、シグナリング理論には重要な仮定がある。それは個人が「能力がある」というシグナルを獲得するためにかかるコストは、「その個人の生産能力と負の相関をする」(p.77)という仮定である。

 もし誰でも「能力がありますよ」というシグナルを発することができるのであれば、すべての人がそうしてしまい、結局何が何だかわけがわからなくなってしまう。シグナルは能力そのものではないが、それが能力を表すのに使える良い指標となるためには、個々人の能力の違いによって、シグナルを発するのにかかる負担が違ってこなければならない。

 そこで再び、経済的な合理性を持つ人間が仮定される。シグナルを発するのにかかるコストと、そのことによって得られるメリットを比較考量して…。というわけである。

 以上、かなり長くなってしまったが、「教育の経済学」の主要な理論を紹介した。勉強にはそれなりの意味がある、と思う人は人的資本論的な発想をしていることになるし、勉強なんかくだらない。ただの消耗だ、と感じている人は、シグナリング理論に近い考え方に立っているといえるだろう。二つの理論は、同じ現象を説明しようとしているのに、教育の効用に関する見解が正反対なのが興味深い。

 こんな考え方は世知辛くて受け入れられないという人もいるだろう。しかし、「学歴を得たい」と思う人々や、求職者を選んで採用する人々の背後にある論理を、「教育の経済学」はシンプルなロジックとして描きだしてくれる。教育と経済の関係を批判するにせよ、しないにせよ、まずは経済の論理がどのように教育と接合するのかを知ることが必要なのではないか。

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April 28, 2004

「がんばれ」が通じない世界の中心で何を叫ぶ?


 立岩真也『自由の平等』(岩波書店、2004年)を読み終える。リバタリアンとリベラリストとの対話を通じて、私有と分配をめぐる問題について論じる際に考える必要がある論点を総ざらいし、そのうえで「自由の平等な分配」を主張するこの本の議論のすべてを要約することは難しい。ということで、今回は立岩さんの主張(それ自体はシンプルである)と、教育とのからみで気になった点をメモしたい。

 ■立岩さんの主張

 「人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行う」(pp.2-3)

 え? これだけ??。しかも現実離れしていないかい? と思う人がいるかもしれない。だが、この本のすごいところは、社会哲学・政治学かいわいの議論(「規範理論」と言う人もいる)を緻密に検討することで、論理的に上記の結論を導き出しているところである。いくつかの前提について納得することができる読者は、「なるほど、理屈は立つな」と思うだろう。

 現実の社会で、この主張に近いと思われるしくみは、「高負担・高福祉」国家+「ワークシェアリング」ということになるだろう。これに「生産財の分配」という主張(これは、ある時期以降のボールズ=ギンタスの主張に近い)をつけ加えると、上記の主張を一定程度くみ取った制度設計になる。

 もちろん、立岩さん自身は、福祉国家的な枠組みでは分配するものの選択や分配の担い手、分配の方法について様々な問題があることを指摘していて、既存の分配の試みを手放しでよしとしているわけではない。これについて詳しいことは、本書を読んでいただければと思う。

 ■この本における「教育」の評価

 それはさておき、この本のなかで立岩さんは、教育に携わる人にとって、ある意味で非常に厳しい指摘を行っている。まず、教育は次のような試みとして捉えられる。

 「この戦略【→教育:引用者】は人の性能が現実には異なること、しかしその差異は環境によって与えられていることを前提にし、その部分を等しくする、そのために人に応じて環境を設定することによって等しくし、そのことによって結果として得られるものの格差をなくそうとする、小さくしようとする戦略である」(p.220)

 この引用から分かるように、<力を伸ばす機会と手段(差異を埋めることができる環境)は与えます。だから努力して、できるようになろう>というのが教育の論理(のある種の形態)である。しかし、立岩さんによれば、このような戦略は「補うことは部分的にしか可能でないし、また常に好ましいことであるともいえない」(p.220)という。それはなぜか。僕の理解では、その理由は、次のようにまとめられる。

 1)努力してもできない(ある水準以上には能力が伸びない)場合がある

 2)努力して身につけるために必要なコストが人によってまちまちで、
   「身についた」ことがら得られるメリットと差し引くと、それほど
   利益を得られない場合がある

 3)努力ではコントロールできない環境の側を変えたとしても、その人
   の生活する場が変わることによって負担が生じ、2)と同様の事態が
   生じる場合がある
   (ex;車いすの人がバリアフリーの度合が高い地域に引っ越したと
    しても、これまで住み慣れた土地やそこでの人間関係を手放す
    ことになる。それはその人にとっての損失である)

 4)努力によって、あるいは環境を変えることで能力を高めたとしても、
   それで人々の違い(格差)が消滅するわけではない。
   この点に関して、たとえば実際の労働市場では、
   
   a)能力以外の要因(属性の違い─格差)で差別がなされる場合がある

   b)雇用者は採用する人の労働力の質(実際の能力)をあらかじめ知ら
     ないために、確率を用いて対応する場合がある。つまり、ある特定の
     属性を有している(「学歴が高い」など)人は、良質の労働力を持つ
     確率が高いと考え、特定の属性を持つ人を優遇する(→シグナリング
     理論に近い)

   c)例え能力だけで厳密に判定したとしても、雇用者が採用する人数には
     限りがあるために、僅かな違いで「採用される人」「されない人」が
     決定されてしまう(→入試の足きりなどもこの図式に当てはまる)
 
 どのような手を尽くしても、埋まらない差がある。そしてそれが人の処遇を決定的に左右する場面が、この世界には厳然として存在する。「差が小さくなれば、小さな差が大きな意味をもつことになることがある」(p.226)。

 教育による格差の是正によってさえ残存する差異は、「やるだけのことを社会はやった、お膳立てをした、だからあとはあなたの問題だ」(p.227)という論法を正統化する危険性がある。だからこそ、それだけではなく自由のための様々な分配を、というのが立岩さんの主張なのだが、この問いかけは重い。「がんばれ」が通じない世界の中心で、教育に携わる人は何を叫べばよいのだろうか。

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April 26, 2004

試験漬けの日々

 以前、競争を利用して教育の効果をあげるようになったのは、中世の修道院でこのやり方が発明されてからだという記事を書いた。

 それでは、日本の場合はどうだろうか。明治時代に西欧的な学校を輸入してからだというのが通説らしい。斉藤利彦『試験と競争の学校史』(平凡社、1995年)は、歴史を明治にさかのぼり(かげりがさしつつあるものの)受験大国・ニッポンが誇る「試験の独特の技術」(p.22)を解明することをめざした本である。

 とはいっても、別に日本が特殊な試験の方法を採用していたというわけではない。日本の教育の特殊性は、違う社会から輸入してきた学校を根づかせるために、徹底的に「競争」と「試験」を利用したところにある。

 斉藤さんは、学校でさまざまに実施されていた試験を、次のように整理する。

 ■「定期試験」の系列
  日課試験→月次試験→期末試験→学年(進級)試験→卒業試験
 
 ■「不定期試験」の系列
  臨時試験、
  巡回試験(県令や書記官が一定地域を巡視し、成績優秀な生徒を選び出す)、
  比較試験(地域の複数の学校から優秀な生徒を選び出す)
  (pp.232-233をもとに整理) 
 
 斉藤さんによれば、比較試験の規模は段々大きくなり、明治二〇年代には、各県対抗の「比較試験」まで組織されたらしい。なんだかインターハイみたいな話である。
 
 興味深かったのは、明治国家が教育に試験を導入したのは、「学校」という新しい仕組みを定着させるためのイベントとしての意味合いがあったと指摘されていた点である。地域によっては、試験日は一種の祭りのようだったらしい。一例として、明治九年に千葉県で行われた「比較試験」の様子を見てみよう。

 「試験の当日は、丸でお祭り騒ぎである。学校の門前両側には飴菓子などを売る露店が、所狭き迄に陣取っている。野次馬は右往左往する。全く儀式会合の様である」(p.104。『千葉県教育史』からの引用)

 これらの重層的・多面的な試験の数々は、近代学校成立当時には「学事の振興」のために組織され、時を経るうちに「上級学校への進学」をめぐる競争を軸として展開するようになった。

 何はともあれ、今も昔も、試験の結果に一喜一憂する人は後を絶たないようである。どのような試験が行われ、そこで人々がどんな風に頭を抱えていたのかに興味があるかたは、本書をひもといてみてください。

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April 24, 2004

世間話の効用

 話上手な床屋のおばちゃんがいて、いつもお世話になっている。髪を切られているときくらい、そっとしてほしいという人もいて、僕もそういうタイプなのだが、なぜかこのおばちゃんとは気楽に話せる。どうでもいい世間話をしていると、ささくれだった気持ちが落ち着いてくるという経験はないだろうか。あれって何なのでしょう。
 
 秋葉昌樹『教育の臨床エスノメソドロジー研究』(東洋館出版社、2004年)は、こうしたことについて考えるための素材を提供してくれる本である。といっても、同書は床屋さんを研究した本ではなく、保健室の養護教諭と子どもたちとのコミュニケーションが分析されている。「エスノメソドロジー」という言葉をはじめて聞いた方もいるかもしれない。本書では次のように説明されている。

 「日常の社会的世界は、人々がそれを営んでいくとき暗黙のうちに用いている『方法(エスノメソッド)』によって合理的に編制され秩序立っている。エスノメソドロジー研究は、その『方法』によって、日常的活動の編制がどのようにして観察可能になっており、また説明可能になっているのかということ(account)を、それが用いられる文脈との相互依存関係(reflexivity)のなかで記述すること(description)を目的とする」(pp.22-23)

 なんだか少し難しいが、ひらたく言えば、エスノメソドロジーとは、私たちが普段は意識しないで使っているコミュニケーションの「やり方」を描いてゆく手法ということになるだろう。

 例えば、この本でも紹介されているように、私たちは会話をするときに、誰かに質問されたら応答し、提案されたらそれを受けるか拒絶することを求められる。ためしに誰かに質問された時に完全に無視してみるといい。そうすると、双方にとってそれがいかに居心地が悪いかが分かるだろう。私たちは「会話の順番取り組織のための最も簡潔な体系」(p.43、サックスからの引用)を用いており、居心地の悪さはそれが攪乱されていることに起因するというわけである。

 こうした発見は、やりとりの記録を細かく分析するなかで導き出されたものである。研究者が勝手に理論枠組みだの分析のための概念などをつくり出して、現場の人たちを好き勝手に分析するんじゃなくて、まずは人々が何をしているのかをベタに見て行きましょうというのが、エスノメソドロジーの主張なのだ。

 この立場から行われた研究の多くは(正確にはその下位領域の「会話分析」派は?)、テープレコーダーやビデオ機器でやりとりの様子を記録し、その時の様子を「トランスクリプト」という定型化された記録にまとめ、それを素材に、人々がどのような「やり方」で日常の社会的世界をつくりだしているのかを記述するのである。

 秋葉さんはこうしたアプローチを採用し、保健室で一日を過ごして、そこにやってくる生徒と養護教諭のやりとりを記録・分析する。一例をあげてみよう。

 「【事例1(Nは養護教諭[以下同様]、Kは生徒)】
  1K: 失礼します” ((ドアをあけ来室))
  2N: あーら、どしたー(ん)あー
      ((執務机で仕事をしながら一瞬入出口の方を見て))
  3K: んとね、あれ
  4N: んー((執務机で仕事をしながら))
  5K: なんかー頭いたい(   )
  6N: なーんか、今日最悪の顔してらっしゃいますねぇー 」
  (同書、p.78)

 本書で数多く収録されているこれらの「事例」は、養護教諭たちによる自主的な研究会などで取り上げられる「事例」や「実践記録」とはかなり様相を異にする。秋葉さんは、カウンセリング・マインドを活用した生徒への「受容的な」対応云々といった、望ましい理念化された「やり方」ではなく、現場で実際に人々が行為する時に暗黙のうちに用いられている「やり方」を描きだすことが何よりも大切で、それを明らかにすることこそが真の意味で臨床──ベッドサイド=現場の──的な教育研究なのではないかと主張する。

 本書で指摘された知見のなかで興味深かったことは、養護教諭による「悩み相談」とカウンセラーの心理面接の「やり方」を比較した部分である。
 カウンセラーと相談者のコミュニケーションは、相談者が一方的に話し、カウンセラーがそれを聞くというやりとりを中心に展開する(順番取得の「非対称性」→これは専門家とクライエントとのコミュニケーションの特徴でもある)。しかも、相談者は自分の話したことがカウンセラーにどのように受けとめられているのか知らないままに、自己について話さなければならない(話題の開放性の欠如)。

 これに対して、養護教諭が生徒と「悩み相談」のやりとりを行う場合には、普段の会話と近いコミュニケーション、つまり対称的・開放的なコミュニケーションが生じている。
 それはなぜだろうか。養護教諭は「身体的トラブル」への対応をその職務としており、ケガや病気や体調不良に対応する時には専門家として振る舞っているが、生徒が悩みを相談するという本来の職務とはややずれた出来事が起こった時には、非専門家同士の会話に近い接し方をするというのである。

 ただし「悩み相談」のやりとりは「身体的トラブル」への対応が行われるなかで生じ、このやりとりは、養護教諭が対応するなかで生徒の気持ちが収まった後に再び「身体的トラブル」をめぐるやりとりへ収束してゆく。ここが面白いところで、保健室に来る生徒(そしてかれらを迎える養護教諭)は、はじめから「悩み相談」をするという目的を持ってコミュニケーションを開始するのではなく、あくまでも体のケアを行うという文脈を基調にしつつ、それに付随する一種のおまけのように「悩み相談」が行われるのである(もちろん、当人達が「おまけ」と感じているわけではないけれど)。

 秋葉さんは、保健室でかわされる様々なやりとりを丹念に再演し、これらの特徴を整理したうえで、次のように結論づけている。

 「保健室での悩み相談が後を絶たず、おそらく今後も養護教諭が生徒達から頼りにされるとしたら、専門的なカウンセリングとは異なるメソドロジー[やり方:引用者]をもって生徒の心と向き合うからなのではないだろうか。本書の主要な目的は、そうした保健室での悩み相談の特徴、独自性、長所といったものを具体的事例からたどり、実証的にその役割・意義を明らかにしようとするところに置かれていたのである」(p.208)

 この本で描かれていることは、ある意味では「当たり前」のことかもしれない。でも、私たちはその「当たり前」を意識しているとは限らず、改めて提示されることでその存在に気づくということがある。エスノメソドロジーの研究プロジェクトは、「フツーであることのすごさ」に光をあててくれるのである。…それはともかく、「床屋さんのエスノメソドロジー」、だれかやってくれないものか。

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April 22, 2004

汝、つばを吐くなかれ

 みなさんは『マニュアル本』のたぐいを買ったことがあるだろうか。高校生のころなどに手に取った(かもしれない)ホットドッグ・プレスやコンピューター・ソフトウェアの解説本、古典的なところでは『手紙の書き方』や『スピーチ文例集』系の本などもこの手のジャンルにくくれるかもしれない。
 こうしたマニュアル本、手に取っているところをみられると気恥ずかしいし、実際に役立つかというと、そうでもなかったりする。手紙本なんかが最たる例だが、ふつうマニュアルで習得すべき項目を提示する時、そこには単一の文脈しか想定されていないため、本で知ったやり方を実際にそのまま使おうとしてもうまくいかないことのほうが多いのである。
 それでもマニュアルに頼ってしまうのが、人間の悲しい性なのかもしれない。せつないのはマニュアルなのか、それとも人間なのか。…でも、マニュアルには本来とは異なるところで、意外な活用法があるのである。

「A
 中世
  ラテン語の食事作法『食卓に侍る少年』(『育児書』第二巻 三二ページ)
  食卓ごしにも、食卓の上にもつばを吐いてはいけない。
  自分の肉を指で引っぱったり、掻き回したりしてはいけない。
  手を洗うとき、手桶桶につばを吐いてはならない」
 
  (中略)

 E
 一五三〇年
 エラスムス『少年礼儀作法論』
 誰かほかの人につばをかけたり、しわぶきを飛ばしたりしないように、
 体をそむけてつばを吐け。(後略)」

 【ノルベルト・エリアス『文明化の過程』(上)
    (法政大学出版局、1977=1969年)、pp.310-311】

 これは、社会学者のノルベルト・エリアスの『文明化の過程』の一節である。エリアスは「礼儀作法書」(今で言えばマニュアル本の一種になるだろうか)を歴史資料として使い、人々の風俗に見られる独特の変化をたどっている。そう、マニュアル本はそれが流通していた当時の社会で「何が望ましい振る舞いなのか」を表す一級品の資料なのである。
 
 同書のなかで、彼がとりあげているトピックは、以下のとおりである。結構興味深い。

 「食事における振る舞い」(第四章)
 「生理的欲求」(おしっこ・うんこ系の作法:第五章)
 「洟をかむこと」(六章)
 「つばを吐くこと」(七章)
 「寝室における作法」(八章)
  男女間の性関係(九章)

 先ほど引用したのは、礼儀作法書のなかで「つばを吐くこと」について言及した部分である。しきりに「つばを吐くな」と書いてあるのは、当時の人々はくどいくらい注意しないとそこらじゅうにつばをまき散らしているということを意味する(今のマナー本に「つばを吐くな」と書いてないのは、あらためて注意するまでもなく、その作法を身につけているからである)。

 礼儀作法書から読み解くことができる「上品な」社交上の作法にみられる歴史的な変化を、エリアスは「文明化」と呼ぶ。他人の皿に手をつっこんで自分が食べたいものを食べる、つばや鼻水や糞尿をあちこちに垂れながす…こうした個人内の欲求をあらわにすることを忌避し、自己を「上品に」コントロールしてゆく傾向が強まってゆくプロセスが「文明化の過程」である。

 こうした歴史の流れは、単なる社会の風俗の変化ではなく、権力(あるいはその端的な発露である暴力)が社会のなかでどのように組織化されているのかを反映している、というのがエリアスの議論で、マニュアル本のような一見すると些末な資料を使うことによって、社会全体の秩序様式の変化をみごとに描きだすことに、この本のおもしろさがある。

 第二、第三のエリアスが登場すれば、いまの世の中に散乱する「マニュアル本」も、数十年後・数百年後には貴重な資料になるかもしれない。みなさん、マニュアル本を持っていることを恥ずかしがってはなりませぬぞ。

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April 21, 2004

わたしの価値ってなあに?

 「人は存在証明に躍起になる」。そんなのあたりまえじゃないかと思う人がいるだろうし、ちょっと毒がある言葉だなと感じる人もいるかもしれない(あるいは、何とも思わないのかもしれない)。ひとの世の真実をついた言葉だと僕は思う。
 これは、石川准『アイデンティティ・ゲーム』(新評論、1992年)の1章のタイトルである。「存在証明」といういささか堅い言葉は、次のような意味で使われる。

 「われわれはこうした自分のアイデンティティを操作することに対してじつに意欲的だ。望ましいアイデンティティを獲得し、望ましくないアイデンティティを返上しようと日夜あらゆる方法を駆使する。これを存在証明あるいはアイデンティティ管理と呼ぶ(中略)。いったいわれわれは何を証明したいのか。これが肝腎な点だ。われわれが躍起になって証明したがっているのは「自分がいかに価値のある人間であるか」ということだ(p.15)」。

 石川さんによれは、アイデンティティを構成する主要な項目には「所属」「能力」「関係」の三つがあり(pp.18-19)、首尾良く存在証明を果たすためには四つの方法があるという。

 (1)印象操作
   否定的に見られるアイデンティティ(の要素)を隠し、
   価値あるアイデンティティの持ち主を装う

 (2)名誉挽回
  「価値あるアイデンティティ項目を実際に獲得すること」(p.28)

 (3)開き直り・解放
   これまで否定的とされてきたアイデンティティ項目をプラス
   へと反転させること

 (4)価値の奪い取り・差別
   人から価値を奪い取ることで、自分に価値があることを
   証明する(この方法には、価値の総量は一定で、その総和
   はゼロになるという前提がある)。

 この説明のおもしろいところは、次に示すように、それぞれのやり方には限界があると指摘されている点である。

 ○印象操作には「隠すことによって内心ますますそ
  れを自分の本質と信じてしまうメカニズムが作動
  するという問題が付きまとう」(p.32)

 ○名誉挽回には、「存在証明のために人生の大半を
  犠牲にしてしまいかねない」(p.32)リスクがある。

 ○開き直り・解放には、これまで信じてきた価値体系を
  再編するという課題の難しさがある。

 ○価値の奪い取り・差別によって人から価値を奪う者は、
  人と交流することができずに孤独に陥るかもしれない
 (とはいえ、「一般に差別は他の三つの方法に比べて、
  存在証明の方法としてのコスト・パフォーマンスは良い」
 「解放をめざす人々からのチャレンジがないとしたら差別
  のコストは非常に低いものになる」)(p.34)

 長々と引用してしまった。この本はまず「人は存在証明に躍起になる」という事実から出発し、なぜ・どのように人は自らの価値を証明しようとするのか、ということを追求してゆく。様々なエスニック・グループ、「自立生活プログラム」の共有と展開をめざす障害者の自助グループ、自己啓発セミナーの現場、「逸脱」というラベルを貼られた人々…アイデンティティをめぐる葛藤が生じる場について考えるなかで、石川さんは、存在証明をめぐるゲームの様相を描きだす。

 存在証明はしんどいことだ。でも、社会は「煽り」の文化を必要とし、私たちは、それに反発を感じながらも「アイデンティティ・ゲーム」に巻き込まれてゆく。時には自分や他人を傷つけ、排除することになるとしても。「じゃあどうすればいいんだ?」と思うかもしれない。だけど、この本は単純な答えを出して、ものごとを解決したかのように見せることはせずに、ひたすらゲームのルールと、その背後にある様々な苦しみや希望を把握しようとする。ルールを掴むことなしには、ばかげたゲームを変えることはできない、そういうクールで熱い気持ちが、本書の議論を支えている。

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April 20, 2004

「極論」と上手につきあう

 お久しぶりです。出張やら締め切りやらに追われるうちに、更新が滞ってしまいました。みなさんはお元気でしたか?

 今日紹介する佐々木賢『親と教師が少し楽になる本』(北斗出版、2002年)は、この前紹介した広田さんの本(『教育に何ができないか』)に近い問題意識で書かれた本である。この本の副題は「教育依存症を超える」となっていて、これを見てもわかるように、「学校教育や家族の教育に向けられた過剰な期待が親や教師を追いつめているので、もう少し冷静に現実をみましょうよ」というのが、基本的なスタンスである。

 ただ、この本は「教育を相対化しなければならない」という意識が強いあまり、いささか肩に力が入っているようにも見える(例えば、pp.110-111に掲載された表に「教育を疑う研究の関連年表」というタイトルがつけられていることなどに「力み」を見ることができる)。

 綺麗事・理想的な教育観がその意図に反してことがらをややこしくしてきたことは確かだが、理想主義的な教育観に対して、リアルな現実をつきつけるという議論の仕方は、「もっと現実を見よう!」ということがある種の理念に転化してしまう危険性があるように思える。私たちは、リアリズムが現実「主義」であることを忘れてはならない(この本のすべての議論がそうであるということではないが)。
 
 こうした「力み」のためか、二分法的な図式が多用され、ことがらが過度に単純化されている点など、いささか問題はあるものの、同書は「日本の教育のいま」を分かりやすいかたちで描きだしているように思える。これはイリイチの『脱学校の社会』を読んだ時にも思ったことなのだけれども、ラディカルな反学校論(佐々木さんの本は反学校論というラベルにはおさまらない部分もあるのだが)は、学校教育のオルタナティヴを指し示すものとして素直に読むよりは、むしろ「極論」というレンズを通すことで、学校教育の現状(のある側面)を細かく検討する素材にしたほうが、建設的なのではないかと思う。

 ということで、「極論」と上手につきあうことの楽しさを知っている方には、けっこうお勧めの本だと思います。過激な議論には、いろんなヒントがころがっていますよ。

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April 14, 2004

たかがマルつけ、されどマルつけ

 学生のころ、塾講バイトで採点の仕事をやったことがある。キャリアの長いベテランの人がビデオテープを早回ししているみたいにさくさくと作業を進める様子をみて、そのマルつけの速さに驚いた記憶がある。

 それはさておき、長尾彰夫・浜田寿美男編『教育評価を考える』(ミネルヴァ書房、2000年)は、教育活動のなかで「評価する」ことの意味をいろんな角度から検証した本である。
 この本は、様々な著者の手による論文集という体裁を取っていて、水準にばらつきがあるのだが、本田(沖津)由紀さんの「教育内容の『レリバンス』問題と教育評価」という論文が特に面白かった。この論文では、ルーマンを引きながら、<情報/伝達/理解をめぐる3極の選択の統一としてのコミュニケーション>という概念を敷衍しつつ、コミュニケーションには三つの不確実性が存在すると述べる。

   1.到達の不確実性
       (時間と空間の広がりに起因する)

   2.理解の不確実性
       (人間の意識の根源的な個別性と隔絶性に起因する)

   3.受容の不確実性
       (拒絶や無視の可能性が常に存在することに起因する)

 彼女自身の言葉を借りると、「教育者にとって、自らが伝えようとする教育内容が、学習者に(1)到達し、(2)理解され、(3)受容されたかどうかということは、非常に不確実」(p.157。( )内は原文では丸数字)なわけである。これって言われてみれば当たり前だけど、私たちはえてして「教育で伝えたいことが実際に伝わるとは限らない」ということを忘れがちである。

 この当たり前の事実を確認したうえで、本田(沖津)さんは、教育における評価の役割は、<コミュニケーションの不確実さに対して「確実さ」の様相を与える>ところにあると主張する。僕は、この箇所を読んで「なるほど!」とびっくら仰天しつつ納得してしまった。
 そう、テストの丸つけ(以外にも評価の方法は様々あるが)は、単にできる・できないを判定しているだけではなく「こちらが伝えようとしたものことは、きちんと確実に伝わりました(orあまりうまく伝わりませんでした)」いうことを、子どもたちや保護者、あるいは自分自身に向けて確認するための作業だったのである。

 ここでポイントを再度整理すると、教育評価には、
  
  a)教授─学習行為の成立を確認するための資料を提供する
  b)教育現場の外部社会に向かって、教授─学習の成果を証明・伝達する

 という二つの機能があることになる。評価は、教育的なコミュニケーションの不確実性を補って、教育の成果を教育システムの内外に流通させる役割を担っているのである。a)は教育システム内部にとってのはたらき、b)は教育システムと外部の環境との関係にとってのはたらきということになるだろうか。

 この論文のもう一つ興味深い主張は、不確実であやふやな教育的コミュニケーションのなかでも、評価に関する部分は意図的に操作することができるというものである。ものごとが伝わるかどうかは不確実だが(だから赤点をとって落第する人がいる)、少なくとも何をどのように評価するのかということは、教育者によって事前に決めることができる(成績に応じて赤点かどうかを判定し、処遇を決めることはできる)。したがって、評価のあり方を変えることは、教育をより良い方向に変えるための有力な手段である…。論文はこのように展開し、シュッツのレリヴァンス概念を使いながら、より良い評価のあり方が構想される。
 
 今回は、本全体の内容よりも、僕自身がおもしろさを感じたところだけをつまみ食い的に紹介した(他の論文もかなり面白いのだが、すべてを紹介するだけのエネルギーが切れてしまいました)。どうでしょうか、みなさん。マルつけはなかなかどうして侮れないのですぞ。

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April 13, 2004

バーチャル職安の楽しみ方

 このところ慌ただしかったので、手短な更新です。村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬舎、2003年)が売れている。僕の勝手な予想では、中高生の子どもをもつ家族と、学校関係者が主な読者だと思っていたが、この記事 を読むとそうでもないらしい。どうやら想像している以上に私たちは「働き方のゆくえ」に不透明感を感じているようである。
 先日、この本を読んでみる機会があったのだが、非常に面白かった(下手なベストセラー小説の数倍は面白いと思う)この本はたぶん中学生が読むより、実際に働いている人が読んだほうが楽しい。その理由は、次の通り。

 1.世の中にはこんなに「職業」があったのかと素朴に驚く

 2.他の仕事と比較しながら、自分の仕事が社会の
           どこに位置づくのかを知ることができる

 3.小さな頃の夢をふり返り「そういえば、あんな仕事に
   つきたいと思ってたな…」と遠い目をする

 4.自分の適性(だと思いこんでいること)を活かした仕事が
   どれくらいあるのかをみることで、「つぶしがきくじぶん」
   あるいは「この道でしか生きていけないじぶん」を再確認する。
   (もちろん僕は後者です)。

 リアル職安を切実に必要としている人たちからは怒られるかもしれないが、この本に掲載された様々な仕事のカタログを眺めていると、他人の人生を俯瞰しているような気持ち、あるいは、自分がたどらなかった別の人生(もし、あの時この道に進んでいたら…)をのぞき込んでいる感じがする。

 「やりたい事=仕事」という幸運なポジションが、すべての人に約束されているわけではない、という身も蓋もないコメント(こういう冷徹な意見がいたる箇所に散りばめられているところに、この本が単なる「やりたいこと探し本」ではないことが分かる)であたまを冷やしつつ、バーチャル職安をうろつきまわるのも良いかもしれない。

 最後に、この本のもう一つの使い方を紹介したい。同書の末尾の部分に掲載された、日本社会における働き方の変化について触れたコラムは非常にすぐれたものである。中学生にも分かる言葉で、90年代以降の労働市場の再編過程が手際よく整理されていて、ここだけ立ち読みするだけで、だいぶ頭のなかがすっきりすると思う。この文章を読んで、ちょっとだけこの本が気になった人(いるのかいな?)は、図書館や書店で、最後のほうのコラムを眺めてみると、面白いですよ。

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April 12, 2004

おまえなんか、家族じゃない/わたしたち、家族みたいなものよね

 わたしはボーグ。両性具有のサイボーグです。人間の世界には「家族」というものがあるというので、遠い星から、それが何なのか観察しに来ました。
 私が最初に観察した人たちは、同じ家に住んでいて、自分たちのことを「家族」と呼んでいました。人間たちが使っている「法律」という基準に照らしても、この人々は「家族」ということになっているようです。でも、そのなかの一人(たしか一番歳が若いメンバーでした)は、怒りながら「僕はこの家の家族なんかじゃない!」と叫んでいました。他の人は彼のことを「家族」だと言っていたけれど、彼はそれを否定していました。これはどういうことでしょう。
 別な日には、二人の男性の様子を観察しました。わたしが見た限りでは、一人の男性がもう一人の男性に、悩みを相談しているようでした。片方の人が「水くさいな。俺たちは家族みたいなもんじゃないか」と言っていたので、きっとこの人たちは家族なのでしょう。でも、はじめの人たちのように、一緒に住んでいるわけではなさそうです。
 「会社」と呼ばれている、たくさんの人たちが集まっている家の様子は、興味深いものでした。年を取った男性が、大勢の人々の前で「我が社の従業員はみな家族です」と言っていました。この家族はたくさんの人からなる集まりで、みんな似たような格好をしています。「従業員」というのは、この人たちのニックネームなのでしょうか。
 それにしても「家族」というものは、よく分からない。ある人は「血がつながっている家族」と言っていたけれど、別の人は「血がつながっていたとしても、おまえは家族なんかじゃない」と言っていました。「友達」という言葉をしきりに使っている人たちの間でも、自分たちのことを「家族」と呼ぶ人もいれば、呼ばない人もいました。同じ場所に住んでいる人も、別々に離れて暮らしている人も「家族」という言葉を使ったり、使っていなかったりしました。血のつながりや「友達」であることや、住んでいる場所が、家族というものの条件のように見える時もあれば、そうでない時もありました。家族っていったい何なんでしょう……。

 J.F.グブリアム/J.A.ホルスタイン『家族とは何か』(新曜社、1997年)は、<両性具有のサイボーグが人類を観察する>という思考実験を行うことからスタートする。上記のたわごとは、本書の勧めに従って、僕自身が「ボーグ」になったつもりで書いてみたものである。

 社会学の一分野に「社会構築主義」という理論的な枠組みで研究を進める人々がいる。本当はいろんなバリエーションがあるのだが、乱暴に要約してしまうと、ものごとをある本質(他にはない独特の特徴)をもった実体として捉えるのではなく、人々のやりとりのなかで作られる(構築される)ものとして捉える立場が、社会構築主義である。グブリアムたちのこの本は、社会構築主義による家族研究の成果として、高く評価されているものである。
 
 僕のたわごとよりも、本書に登場するボーグ君の観察のほうが面白いのでそちらを読んでもらいたいのだが、この本で一貫して主張されていることは、「家族」というものはある固有の特徴を持った実在ではなく、人々が「家族」という言葉を使ってコミュニケーションをするなかでたちあらわれるもの/あるいはこうしたコミュニケーションの前提とされることによって、あたかも一つの実在であるかのように把握されるものである、ということである。

 ちょっとくどい書き方になってしまった。ボーグ君の言葉を借りれば、家族というものがまずもって存在するとみるのではなく、「人間たちが法的な定義や生物学的な定義では捉えられないやり方で家族を使っている」(訳書、p.9)、そのやり方をまず見ましょうという提案が、社会構築主義の立場にたつ家族研究の主張である。これは、本当は「家族すること」があるのであって、「家族」という実在があるのではない、と言い換えることができるだろう。

 ということで、本書はこのような視座に立ちつつ、法廷で、病院で、アルツハイマー病の家族を支援する自助グループで、あるいはソーシャル・ワークの現場で、「家族」という言葉がどのように用いられるのかということを丹念に検討してゆく。家族というものは、えてして自明の存在として考えられがちであるが、この本は、そうした素朴な実感から遠く離れた地点へわたしたちを連れて行ってくれる。

 人によっては、だからどうした? そんなひねくれた見方をして何になるの? と思われるかもしれない。だが、私たちは「家族」という言葉を用い、「これはプライベートなことだから、立ち入らないで欲しい」という意志を表示したり、あるいは逆に「こんなの家族ではない」と言うことで、親密な関係に介入したりする。「家族」という言葉を使用すること。その背後にいかに多くのことがらが隠されているのかということを知ることができることの意味は、あんがい大きいのではないだろうか。

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April 10, 2004

休日には古典でも

 僕の住んでいるところでは、いまがちょうど花見どきで、車で移動中に公園などを眺めると、場所取り用のブルーシートをあちらこちらに目にする。うう、楽しそうだ…。いやいや、花見ばかりが能じゃない、休日にはじっくり本を読むぞという方に、ちびちび読んで楽しめる古典を一冊紹介したい。
 デュルケム『フランス教育思想史』行路社、1981年)は、700頁を越す大著で、お値段も5250円と結構手強い本だが、教育に興味のある人は手元においておきたい名作である。
 社会学の創始者の一人(正確には第二世代の社会学者になるか…)に数えられるデュルケムだが、大学で社会学とあわせて教育学の講義を担当していたこともあって、教育に関する著作がいくつかある(『教育の社会学』『道徳教育論』と『フランス教育思想史』の三点セットが有名)。これがまた良い本なんですよ。
 「著作」と書いたが、正確にいうと、この本はデュルケムがパリ大学で行った教育史に関する講義をまとめたものである(他の二冊の教育本も似たようなプロセスで刊行されている)。フランスの中等教育の展開過程を中核に、教育思想と教育制度の歴史を論じた同書は、平易な言葉で「教育」という独特な人間形成の営みを支えた思想とそこで用いられた人づくりの装置の変遷を描きだす。教育が社会を変え、社会が教育の在り方を変えてゆく。世代の再生産をめぐるこの循環が、フランスの事例にそくして見事に整理される。

 この本は様々な読み方ができるが、僕が面白く感じたのは、現在の学校の起源をルネッサンス期の修道院に求めている点である。16世紀に活躍したジェスイット会(イエズス会:有名どころではフランシスコ・ザビエルが所属していた)は、当時その影響力を低下させつつあったカトリック教会の復興をめざして、世界中のいたるところに宣教師を派遣し、熱心な伝道につとめた組織である。
 このジェスイット会が設立した修道士のための教育機関(コレージュ)は、これまでの教育組織にはなかった斬新な仕組みを持っていた。そのため、この機関は「大学から教育の独占を奪い、極めて迅速に学校生活において一種の覇権をも握ろうとする」(p.463)絶大な影響力を持っていたという。
 
 ジェスイットのコレージュが採用していた教育の仕組みは、近代以降の学校のあり方に大きな影響をあたえたとデュルケムは主張する。ジェスイットという組織の特徴と、かれらの手による教育の特質は、以下のように整理できるだろう。

  ■ジェスイットたちの特徴

   (1)宗教的な規律・規則に対するコミットメントの高さ

   (2)宗教世界への献身と同時に、世俗の世界に生きる在
     俗司祭のあらゆる特徴を示していること
 
    「一方では、保守的または反動的でさえありながら、
     他方では自由主義的であるという二重人格」(p.467)

   (3)カトリック教会の復興という目的を果たすために、
     教育を非常に重視した点。

     「伝道したり、克解をきいたり、問答により教義をとく、
       だけでは充分ではなく、魂を把握する真の方法は青年に対する
       教育であることをいち早く理解していた」(同p.468)

  ■ジェスイットのコレージュで行われた教育の特質

   (1)古典語(ラテン語・ギリシャ語)を用いた教育。
                   もっとも徹底した形式主義。

   (2)生活の場と教育の場の分離、生活の場における厳しい統制

   (3)体系的で強力な規律・訓練のしくみを導入

   ─→そこには、二つの原理があった。

    ★第一の原理
       ──生徒と教育者の間に、連続的で人格的な
                  接触を組織化する(同p.516)

     その目的
      1)逸脱的行為の阻止
       「生徒の形成のためには、時々の消長は減退に陥
        ることのないような影響力の下に生徒を置くことが必要」

      2)個々の人格に応じた指導法を見いだすため
        「(教育的な接触を)相手の年齢、知力、家庭状況などに
         応じて加減し、調整する」
 
    ★第二の原理──絶えざる競争によって、生徒たちを刺激する


 なんだか断片的なメモ書きになってしまったが、こうした特徴をもつジェスイットのコレージュは、当時の社会から絶大な支持を受け、その教育方法は大学やその準備機関にも取り入れられることになった。
 
 そこで見られる特徴、1)知識の伝達・獲得の(ある種の)形式性を重視したこと、2)周囲から隔絶された空間に教育的な資源を集中的に投下していること、3)体系的で強力な規律・訓練を行ったこと、4)競争の原理を用いて、子どもたちをコントロールすること、これらはこの時期の学校に端緒をなすものである。今の学校では当たり前だと思われていることがらは、じつは歴史的な発明物なのである。

 もちろん、古典とよばれる書籍にたがわず、この本の読み方は他にもいろいろあるわけで、読者の数だけ、また、繰り返し読むごとに新しい発見がある。どうでしょう、花見の場所取りなぞをしていて、時間をもてあましている間にこの本を読んでみるのは……。満開の桜のもとで、分厚い学術書を広げている姿は、ちょっと怪しいかもしれませんが。

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April 09, 2004

限りある資源を大切に

 という見出しを書くと、なにやら環境問題についてもの申すみたいだが、今日は家族の話である。サンドラ・ウォルマン『家庭の三つの資源』(河出書房新社、1996年)は、ロンドンのインナーシティで暮らす8つの家族を対象にした調査をもとにして、家族を捉える際の新しい視点を提起した本である。
 ウォルマンによれば、家族とは「資源システム」である。これだけではよく分からないので少し補足すると、彼女は家族を一種のネットワークとして捉えており、家族のメンバーが、自分たちの生活を支えるために「資源」を活用するプロセスこそが、家族というまとまりを形成すると主張する。ここでいう「資源」とは、よりよい生活を可能にするための源で、そのあり方には様々なものが想定できるが、ウォルマンは特に三つの資源を重要視する。少し引用してみよう。
 

 「高度に産業化された都市環境における家庭生活のプロセスの問題をとくに説明するために、本書もふくめ、資源という概念を使うさいには、古典的な土地─労働力─資本というトリオにさらに三つの資源を加えている。その三つの資源とは、時間情報、そしてアイデンティティであり、それでもって簡潔に、しかも該当する対象の範疇をすべてカバーすることができるのである(下線部は訳書では傍点)」(p.47)

 ここでは「土地─労働力─資本」という、昔から言われている生産活動に関わる古典的な資源に加えて、時間、情報、アイデンティティが一種の「資源」として捉えられている。家族はこれらの資源を有効に活用しながら、日々の困難にうまく対応し、暮らしを成り立たせているとウォルマンは主張する。

 親戚や友人などの家族外の人々とのインフォーマルな関係、それによって入手した情報、エスニシティ・地域性・職業などを基盤にしたアイデンティティ、一日の時間配分(家族成員の誰が何をどのような順序で行うのか)などなど。ウォルマンたちの研究グループが観察した8つの家族は、これらの「資源」をそれぞれのユニークなやり方で活用する。失業・片親であること・マイノリティ・グループに属していること…家族に様々な困難を誘発することがらも、資源を有効に活用することである程度乗り越えることができるのである。
 ちなみに「資源」とは、ただそこにあるだけで役立つものではなく、それをうまく使えるかどうかが、家族の生活の質を左右するものとされる。仮に同じ地域で生活し、同一のエスニック・グループに所属する経済水準の等しい家族があったとしても、資源の使い方によってその暮らし向きは全く異なってくるのである(ここで指摘されていることがらは、コールマンが「社会資本」social capitalと呼ぶものに近いようにも思われる)。

 この発見は、行政機関があるカテゴリーを用いてひとくくりに把握する家族も、その実際の暮らし向きが実にバラエティに富んでいること、どのような逆境に置かれた家族であっても、手持ちの資源をやりくりしながら、生活上の困難に立ち向かう主体性を有していることを示唆するものである。また、(家族を超えた)人々のネットワークのなかで生起する<家族生活という動態的なプロセス>として家族を捉える視点は、構築主義的な家族研究のような徹底さはないにせよ、「家族」なるものを実体的に捉える見方を相対化してくれる。

 えてして学校の教師たちは、子どもの様々な問題行為を「理解のない家族」に帰属し、様々な問題を抱えた家族を同一のカテゴリー(例えば「生活の厳しい家族」など)を用いて語る傾向にあるように思える。そこでイメージされる「家族」は、教育力を欠いた無力な存在である、というのは言い過ぎだろうか。手持ちのカードをうまく使いながら、たくましく生きる家族。難しさを抱える家族のポジティヴな側面を、ウォルマンの議論はみごとに照らし出してくれる。

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April 08, 2004

街は世につれ世は街につれ:『広告都市・東京』(★★★★★)

 北田暁大『広告都市・東京』(廣済堂出版、2002年)は、映画『トゥルーマン・ショー』を手がかりに、80年年代/90年代の都市空間と広告の関係変化を論じた書である。映画の主人公、トゥルーマンは、ハリウッドに作られた虚構の街「シーヘヴン」に住み、その日常生活のすべてが全世界に向けて報道される人物である(しかし、はじめ本人はそのことを知らない)。
 この映画のキーワードは「広告」である。広告は、そのスポンサーの手による資金によってトゥルーマン・ショーを支える基盤を提供すると同時に、トゥルーマンの生きる閉ざされた世界と外部とを無造作に結びつける出来事を誘発することで、シーヘヴンの虚構性を暴き出しこの番組を解体させる両義的な存在として描かれている。
 北田さんは、『トゥルーマン・ショー』の筋立てを追いながら、広告・資本・世界の関係を解読するための視座を提示する。絶えざる差異化を通じて増殖してゆく資本は、広告というテクノロジーを用いて、日常生活に自らの論理を接合(浸透?)させてゆく。「資本の論理(外部)と日常的な意味世界(内部)の媒介」p.15としての広告というのが本書の基本的な枠組みである。
 あくなき資本の運動の結果、本来は媒介物にすぎないはずの広告は日常生活と分かちがたく結びつき、広告である/広告でないことが判断不可能な世界(広告が「幽霊化」した世界)、すなわち「シーヘヴン」が登場する。そこでは「外部=資本」、「批判=外部」、「外部に目を向ける機転としての<私>」という三つの外部性が隠蔽され(pp.95-102)、人々は「見られているかもしれない」という不安のなかで、「支配者の用意する<台本>を進んで受け入れて行く」(p.106)。自分らしく振る舞うことが広告であると同時に、広告によって促されるような閉じた空間が形成されるのである。差異化による資本の増殖は、誰にも気づかれず、批判されることなく進展してゆく。
 ただし、この状態は永遠に続くわけではない。社会的な文脈の変化、具体的に言えば広告が寄食するメディアの布置状況の変化(マスメディアが有する特権性の解体)に伴ってシーヘヴンはその虚構性をあらわにし、自己崩壊にいたる。ただしそれは、内部から外部のユートピアへの脱出というよりは、別様の悪夢の到来である。

 このような理論的枠組みを設定した上で、同書では渋谷という街を素材に、私たちにとってのシーヘヴン(「広告=都市」)の成立(80年代)とその解体(90年代)のプロセスを描きだしてゆく。

 ここで北田さん自身の言葉を借りて広告=都市・渋谷の変化を簡潔にまとめるならば、「秩序の社会性」から「つながりの社会性」へ、空間編制の原理が移行したということになるだろう。本書では、ルーマンのコミュニケーション概念を敷衍しつつ、社会性に二つの局面があると述べる。

 「ルーマン的なコミュニケーション概念から私たちは、ふたつの「社会性」概念を抽出することができるだろう。ひとつは、ある行為──誤解されようが、ともかくも──別の行為(理解)へと接続されコミュニケーションが生起する、というつながりの社会性。もうひとつは、誤解の可能性を低める共同的ルール(状況の枠組み)にもとづいて行為を調整するという秩序の社会性。(中略)つながりの社会性と、秩序の社会性は、絡み合いながら微妙な関係を保ち、私たちの社会空間を可能にしているのだ」(pp.153-154)

 来場者が同じ物語を共有し、それぞれの役回りを楽しむディズニーランド的な劇場空間から、ドラッグストアやCDショップ、雑貨店が乱立し、各人の興味に応じたネタを容易に収集できる利便性を一義的に追求した空間へ。渋谷の変化は、コミュニケーションのためのコミュニケーションとでもいうべき携帯メールのやりとりにも似た「つながりの社会性」に適合的な空間の創出とみることができるのである(同様の変化が、秋葉原では空間の「オタク化」として展開した。この点については、森川嘉一郎『趣都の誕生』幻冬舎、2003年を参照)。
 
 以上が本書の概要だが、教育の問題を考える際にこの本から学ぶべきことは、(1)80年代的な消費社会と90年代以降の消費社会の異同をきちんと把握したうえで、子どもと消費文化、子どもとメディアについて論じることの必要性と、(2)空間の編制原理の転換という観点から、社会秩序の変化を描きだす手つきではないだろうか。
 これは僕の勝手な思いこみかもしれないが、教育の世界で消費社会と子どもの問題を論じるとき、多くの論者は90年代以降の消費社会の変化をうまく整理することができず、80年代的な特質を半ば前提としながら、これらの問題を論じているような気がする(宮台さんの仕事など、例外も多々あって、そういうくくりもどうかと思うが)。消費社会の様々なバリエーションを把握すること、資本による誘惑の戦術がどのように変化していったのかを追跡すること。消費社会を嘆くおきまりの言説を反復する前に、こうした作業がまずもって必要なのではないか。
 また、学校という空間は、ある意味では「秩序の社会性」を貫徹するべく編制された空間である。北田さんが論ずるように、90年代の都市の風景が、このような原理の無効化によって特徴づけられるのであれば、一見すると昔から変わらないように見える学校も、その空間編制の原理を変えつつあるのかもしれない。単位制の導入による学級の解体や、フリースクール、子どもの「居場所」などのオルタナティブな学びの場の出現。そして「学区」という共同性と制度性が接合した空間の無化。これらの変化が持つ意味を考える時に、この本に描かれた風景の変化が、探求の道しるべとなるだろう。

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April 07, 2004

なんでだろう〜

 学校生活を振り返ると(あるいは、学校でいま生活している人は)

 ○勉強しなきゃいけないのはなんでだろ〜
 ○やたらに細かい校則があるのはなんでだろ〜
 ○先生が「いかにも教師」というような物言いをするのはなんでだろ〜
  (以下略:それっぽく節をつけたいところだが、まずそうなのでやめておきます)
 
   ってなことを考える時期が、一度くらいはあると思う。

 でも、たいていの人は、「まあ、こんなもんだろう」「常識なんだから考えても仕方がない」と思って、これ以上思考をつめることをやめてしまう。時間は限られているし、やりたいことはたくさんある。これはまあしょうがないことだ。

 でも、こうした素朴な「なんでだろう」も、一歩掘り下げると学問とつながってゆく。そのことを示した好著が、苅谷剛彦『学校って何だろう』(講談社、1998年)である。この本はもともと『毎日中学生新聞』に連載されていたコラムをまとめたもので、中学生が読んでもすぐにわかる平易な言葉で、学校生活で浮かび上がる様々な疑問に応えてゆくスタイルになっている。この本を読むと、学校について何となく分かっていたことがらも、きちんとよく考えてみると、まったく違う側面があることに気づかされる。

 一例をあげてみよう。「校則はなぜあるの?」という章で、苅谷さんは「ルールが適用される範囲」という観点で法律(社会全体に適用)と校則(学校内のみに適用)の違いを指摘し、校則には法律とは違う機能があることを指摘する。それでは校則独自の機能とは何だろうか。校則は「反抗のリトマス試験紙」というのがその答えである。
 ここまでなら、常識の範囲内かもしれない。だが、苅谷さんは話をさらに進め、反抗しているか、していないかを重視することは、法律のように「正しい行動」ではなく「正しい態度」を問題としている点に特徴があると述べる。

 「ここには、学校で行われる「教育」の特徴があらわれています。そのこと自体が正しいか間違っているか、(行動という観点では:引用者)善か悪かの判断ができないようなことでも、学校という場所では、教育という観点から見て、良い悪いの判断が行われる。…このような判断が行われるのは、正しい態度(正しい心のもちよう)を育てることが、将来、よい大人になることにつながる、それが教育という仕事だと先生たちが考えているからです」(p.79)

 ここでは、校則が「反抗」を測る指標となっているだけではなく、「反抗」が問題となる教育的なコミュニケーションにおいては「良い」「悪い」ということが重要なポイントとなること、「良い」「悪い」の見極めが、そのような判断が下される現実の行為とは必ずしも対応関係にないことが指摘されている。「校則って何だろう?」という素朴な疑問が、ここでは教育の営みの本質にせまるための思考の道筋として活用されているのである。

 分かりやすいことが必ずしも良いことであるとは限らないが、学校や教育の本質を中学生にも分かる言葉で語ったこの本は、むしろ大人たちにこそ読まれる価値があると思う。

 最後のもう一つ本書の効用を示せば、「なんでだろう」という素朴な問いをうまく展開するためのヒントが満載されているので、思考法のトレーニングとしても使えるかもしれない(実際のところは教育に関する豊富な知識が最初にあって、それを分かりやすく伝えるために「なんでだろう」という問いが提示されているから、思考の順序は逆なのだが、それでも参考になる点は多い)。

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April 06, 2004

「やらはた」を知っているかい?

 「やらはた」とは、「やらずにはたち」の略で、童貞のまま二十歳を迎えた男性のことを意味する言葉である。あなたはこの言葉を聞いたことがありますか。
 渋谷知美『日本の童貞』(文春文庫、2003年)によれば、特定の年齢までに性交渉の経験がなければならない、という童貞喪失年齢を規範化する言説が登場したのは70年代の初頭で、「やらはた」という用語が定着したのは1990年に『メンズノンノ』で「『二〇歳の童貞って恥ずかしい?』というテーマを深〜く考え」る特集が組まれたころだという(p.163)。
 先日紹介した井上さんの本が、空間編制に着目して性の歴史を描いたのに対し、『日本の童貞』は、「童貞」という言葉にこだわって、二〇世紀の性愛をめぐるイメージの変遷をみごとに活写している。
 本の中に登場する事例の一つ一つが面白いので、これ以上その内容を紹介することは差し控えたいが、大まかな筋を示すと、童貞にまつわるイメージの変遷は

  1.童貞が無かった時代
  2.(社会の一部で)童貞であることが輝かしいものとされていた時代
  3.童貞であることが負のしるしになる時代
  4.童貞の復権をめざす試みが出現しはじめた時代

  という区分で整理することができる、というのが同書の主張である。
 童貞という言葉の用法やそこに込められた意味合いを丹念にたどってゆくと、性愛領域を特権化し、それを通じて「個人」をめぐる問題に人々を惹きつけてきた近代社会の秩序のからくりや、男性/女性の境界づけをめぐる力関係の変化が浮かび上がってくる。ちなみに「童貞」の歴史は、子ども・若者を性愛領域から遠ざけてきた学校教育の歴史でもある。明示的には触れられることはなかったが、この本は、隔離された世界から描いた近代学校教育史のサイド・ストーリーとしても読める。
 週刊誌の記事を読むように(事実、雑誌記事がこの本のなかでは数多く引用されている)、気軽に本書を読み進めてゆく読者は、知らないうちに、近代社会のジェンダー秩序をめぐるさまざまな問いが自分に提示されていることに気づくだろう。

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April 04, 2004

「あそび」の個室化は大人にも?

 「子どもが外で遊ばなくなった」と言われて久しい。とはいっても、アンケート調査などの結果をみると、外で遊ぶと回答する割合もそこそこあるし、個人的にもときどき外で子どもたちが元気に遊ぶ姿を目にするので「外で遊ばなくなった」というよりは、家のなかだけで楽しめるツールが充実したということなのだろう。
 ところで、外で「遊ばなくなった」のは、子どもたちだけではないようである。これから紹介する本によれば、大人たちの遊びも個室化したらしい。もっとも、ここでの「遊び」は、大人のアソビ──性愛行動──のことを指す。井上章一『愛の空間』(角川選書、1999年)の書き出しは、こうである。

 「野外で性行為を日常的にいとなんでいるカップルは、あまりない。(中略)だが、ほんのすこし歴史をさかのぼると、情況は一変する。じっさい、二〇世紀のなかごろだと、野外で愛しあうカップルはたくさんいた。性行為の場所が屋内に集約されだしたのは、わりあいに新しい現象なのである」(p.10)

 井上さんはこの本のなかで、小説、雑誌、新聞などなどの様々な資料を縦横に駆使して、二〇世紀日本における性愛の空間史(ひらたくいえば、ラブホテルの社会史、とでもなるだろうか)を展開してゆく。
 屋外からラブホテルへと、性愛の営まれる空間が個室化してゆくプロセスを主軸に、娼妓や芸妓などの性労働に従事していた人々(くろうと)と一般の人々(しろうと)との間にみられる違いや、警察権力が性愛空間の分節化に与えた影響などが論じられてゆく。資料をもとに当時のユニークなエピソードが次々と紹介され、飽きることなく一気に読んでしまった。

 もっとも興味深かったのは、現在の私たちにとっては予想もつかない場所が、愛の営みの交わされる場として利用されていたことである。ネタばらしをしないために現代的な文脈に置き換えると「え? カラオケボックスで?」とでもいうような所、つまり、本来の使用目的とは異なる場所がアソビのために利用されていた。その場所がどこかは、同書を実際に読んでいただければと思う。

 この本が教育とどう結びつくのか? と言われるといささか困ってしまう。むりやり結びつければ、プライベートなことがらが営まれる空間が個別化してゆく歴史過程は、大人に限らず子どもの世界にも共通するのではないか、ということになるだろうか(われながら強引なまとめだ…)。
 子ども部屋の歴史、あるいは子どもの空間を特徴づけるモノにこだわって、学習机や玩具の歴史などを研究すると、意外な事実が見えてくるのかもしれない(もうすでにそのような研究があるのかもしれないが。子ども部屋の歴史ではないけれど、家の間取りの歴史的な変化から家族を論じた研究はすでにあるので)。

 最後に話を性愛に戻して、気になる論点を一つだけあげたい。「野外から個室へ」という井上さんの枠組みを用いると、一部で話題のドッギング のように、情報技術を利用した性行為の再野外化は、どのように整理することができるのだろうか。これはITを使っているわけではないが、日本の事例で言えば、カップル喫茶やハプニング・バーのような空間はどうなるのか。ひょっとすると、性愛空間のポストモダンは、個室的かつ不特定多数にひらかれたものになりつつあるのかもしれない。なんて書くと、正高信男「ケータイを持ったサル」(中公新書、2003年)の「家のなか主義」みたいな話になっちゃうな。

 とまあ、大風呂敷をひろげつつ、たまにはこういう日もあるということで、ごかんべんください。

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April 03, 2004

行列のできる教育相談所?

 島田紳助が司会をする「行列のできる法律相談所」(日本テレビ)という番組がある。キャラの濃い弁護士軍団が法的判断をめぐって激論を交わす様子を眺めて、「いくらなんでも、今のやりとりは台本だろう」などとつっこみを入れながらみるとそこそこ楽しい。
 似たような企画の番組は他にもあるが、いずれも、弁護士たちが様々なトラブルについて、「法律的にみるとどうなるのか?」コメントする構成になっている。言うまでもないことだが、これらの番組がねらうおもしろさの一つは、私たちの常識と、法的な観察やそれにもとづく判断とのズレである。「え!? これって罪になるの?」と言わせるような事案を毎回探すのはけっこう大変な課題で、弁護士軍団の過剰なまでの「キャラ立ち」は、それをカバーするための方略なのだろう。毎回、常識を覆すケースだけを紹介できるわけではないので。
 それはさておき、この番組を見ると分かるように、あるものごと(例えば遺産相続)は、法的な観点から観察し、コミュニケートすることができる。もちろん、遺産相続という現象は、家族の間の愛情であるとか、道徳的な正しさなど、法的な観点以外から観察・コミュニケーションできる要素も含まれている(正確に言えば、別の角度から観察することも可能である)のだが、法律の専門家たちは、あくまでも「法的にみて」このケースがどのような概念で構成できるのか──この例では「相続」の問題としてみるわけである──ということを問題とみなす。そこでは、合法か/不法かという区別にもとづいて、コミュニケーションが連結してゆくのである。
 ドイツの社会学者ルーマンは、このような特定の視点からなされるコミュニケーションの連鎖を「社会システム」として捉え、近代以降の社会は、経済、法、宗教、政治、芸術、科学、教育といった領域が、それぞれ独自の視点で観察し、コミュニケートするシステムとして分化した社会だと述べている。これまでは法システムを例にあげたが、例えば経済は、貨幣をなかだちにして「儲かるか・儲からないか」(支払うか/支払わないか)という観点を機軸としてコミュニケーションが生起し、他のコミュニケーションとつながってゆく営みのなかで、独自の論理がはたらく一つのまとまりを構成する。
 ルーマンによれば、教育も一つの社会システムであり、そこでは「子ども」や、人々の「ライフコース」をめぐって独特なコミュニケーションが展開すると言う。僕の頭が悪いからということもあるのだが、ルーマン社会学は、かなり難しい用語たちに満ちているので、今回はこれ以上たちいって教育システムに関する議論を紹介することができない。これについては日を改めて紹介し、今回はルーマンの教育論について、日本語で読める文献を二つ紹介したい。
 
  ○石戸教嗣『ルーマンの教育システム論』恒星社厚生閣、2000年
   ルーマンによる教育研究の流れを整理し、彼の
  「教育システム論をその基本的なテーマに沿って再構成」(p.1)した本

  ○石戸教嗣『教育現象のシステム論』勁草書房、2003年
   ルーマン理論を日本の教育現実に適用した応用編。

  ここらで教育をめぐるルーマンの議論をみっちり勉強して、常識とはかけはなれた教育的なコミュニケーションのユニークな特徴を描きだすことができれば、「行列のできる教育相談所」なる番組が企画できるのか…も…しれません。だれも見なさそうだけど。

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April 01, 2004

ひきうけ過ぎて、すり切れないための処方箋:『教育にはなにが出来ないか』(★★★★)

 その時はあまり深く考えずにOKしたけれど、実際やってみると自分の手に余る仕事に苦しむことが多い。こうなる原因は明白で、断ることで相手が自分に対して抱くイメージが低下するのではないかという小心さと、「自分には何ができるのか・何ができないのか」という見きわめが甘いことに起因する。分かっちゃいるけど、やめられない。人は弱い生き物なのだ。
 私事はさておき、教育の世界も社会からあれこれ要請されすぎて首がまわらなくなっている感がある。「フリーター増加の解決は教育から」とか「『食育』を充実させて、正しい食生活を子どもたちに伝えよう」「小学校から英語教育をはじめて、グローバル社会に通用する人材を育成するのだ」などなど、社会の様々な問題の解決策が教育(とりわけ学校)に期待され、あれもこれもやろうとして、てんやわんやの大騒ぎ、というのが教育業界の実情ではないか。だいたい、人も資源も限られている(むしろ削減されようとしている)のに、学校がそんなにできるわけないじゃないか。
 たぶん、経済や政治のように、これまでのやり方を急に変えるのが難しい(ように見える)領域とちがって、教育的な活動は「未来の子どもたち」にその成果が現れるのを期待するという構図があるために、困った問題のよろず引き受け所のように扱われているのだろう。美しいスローガンをぶちあげれば、あるいはそれによって現状を嘆けば、それで話がすんだように見えてしまう、それが教育論議の持つ怪しさである。
 広田照幸『教育には何ができないか』(春秋社、2003年)は、タイトルを読めばすぐに分かるように「教育に出来ないこと」から出発したほうが、教育をめぐる様々な議論の風通しが良くなるのではないかと主張した本である。広田さんが書くものはどれもそうだが、常識的な発想の裏をつく逆説に満ちた同書は、「目からウロコ」体験をもたらすこと間違いなしである。

 「教育の限界」という挑発的な題の序論で、広田さんは教育には次のような限界があると述べる。

  (1)教育資源上の限界
    「人、金、時間」といった、教育に投入される
     資源上の限界(p.6)

  (2)確率論的な限界
    「教育する側の意図通りの成功は、確率論的にし
     か起きない」(pp.9-10)

  (3)権力的な介入の範囲の策定
     教育は個人の内面に介入する営みを伴うので、
     過剰な権力性を帯びないようにしながら「どこ
     までは立ち入れるか」という観点で、教育する
     権力を組織化する必要がある。

  (4)価値の多元性を保障するための範囲の策定
     教育による文化の伝達は、「教育では伝えられない」     
     文化の排除をもたらす危険性があるので、価値の多
     元性の保障とバランスを取りながらなされなければ
     ならない。

  (5)地球環境の有限性
    「豊かになりたい」という欲求に歯止めをかける手段
     として、教育を用いる必要がある。

  (1)(2)は、教育が「できない」こと、(3)(4)は、教育が「やってはいけない」領域を定める必要があること、と整理できる。(5)は、人間社会の外部環境には限界があり「未来は限りなく良くなってゆく」という近代教育の前提そのものに限界がある、という話である。

 「教育にはできないことがある」「教育が、これをやっちゃあおしめえよ」という前提を確認することから出発して、その上で「では何をすれば良いのか」と考え、私たち自身が「教育にできること・教育の役割」を選択するというのが、本書をつらぬく思考の筋道である。これはかなり使える。混迷を深めつつある教育業界に生きる人々が燃え尽きないための処方箋、あなたもいかがですか?
 

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March 30, 2004

スペインの憂鬱──『大正デモグラフィ』を読む

 スペイン風邪という言葉をご存じだろうか。鳥インフルエンザをめぐる一連の報道は記憶に新しいところだが、その恐怖は、鳥→豚→ヒトと、キャリアとなる種を超えてウィルスが増殖するなかで、毒性の強い新しいタイプが登場するリスクにある。
 1918〜20年に世界中で大流行したスペイン風邪の原因も、変異したインフルエンザ・ウィルスにあると言われている。当時、この病気によって死亡した人間の数は2000〜4500万人と推計されており、日本の死者も約50万人にのぼったという。とんでもない数の犠牲者である。
 ちなみに「スペイン風邪」という名称の由来について、速水融・小嶋美代子『大正デモグラフィ』(文春新書、2004年)は次のように述べている。

 「(スペイン風邪という名称になったのは、第一次世界大戦)戦時にあって、参戦国はどこも多大な戦病死者の存在、あるいは国内における流行を公表せず、ひとり中立国であったスペインにおける流行が広く喧伝されたからである。それに、ヨーロッパでは、何でもよくないことはスペインのせいにする、ということもある(中略)しかし、スペインが発生源でなかったことは確かである」(p.122)( )内は引用者による。以下同様

 それにしても、「二〇世紀最悪の流行病」の代名詞とされたスペインもたまったものではない。SARSのように、地名に由来しない名称が考案されれば良かったのに、と思わず同情してしまう。

 この本のタイトルに用いられている「デモグラフィdemography」という言葉は、出生・死亡・移動といった、人口現象を対象にした研究を意味し、一般には「人口学」「人口統計学」と訳される用語なのだが、同書ではギリシャ語の意味に立ち戻って、demos(民衆)のgraphy(記述)──民衆誌と理解したほうが適切であると主張している。「大正デモグラフィ」とは、大正デモクラシーにかけた単なるだじゃれではなく、流行病による死亡、都市化の進展による出生率の減少などなどといった、人口現象の視点から、大正期に生きる人々の生活のあり方を捉えるために作られた造語なのである。
 
 なんだか話が散漫になったきた。このブログの本筋に立ち戻り、教育の問題を考えるときのヒントとなる、興味深い箇所を紹介したい。この本では、国勢調査をはじめとする様々な人口現象を把握するためのデータが掲載されているが、「神奈川県の月別出生分布」という表とのその解説が面白かった(p.171に掲載)。
 この資料は、各月ごとの出生数が年間の出生数に占める割合を図示したものなのだが、そこでは大正中期から末期にかけて、「早生まれ症候群」と名付けることができる傾向が見られる。具体的に言えば、1月と3月に生まれる子どもの数が、他の月とくらべるとべらぼうに多くなるのである。
 だからどうした? と思われるかもしれない。だが、この奇妙だがその意味するところがよく分からないデータについて、著者たちは次のような解釈を加えている。

 「(「早生まれ症候群」の理由は)第一に、明治四〇年に小学校令の改正があり、小学校の就学率がほぼ一〇〇パーセントになったのを機に、就学年数が従来の四年から六年に延長されたことである。そのために、早く小学校を卒業させ働き手とすることを親が考え、早生まれで子どもを産んだ可能性がある」(p.171)

 当時の親たちは、労働力となる子どもたちをしぶしぶ学校に通学させていて、「なるべく早く卒業して、家業を手伝って欲しい」と思い、1月〜3月に子どもを産むようにした、というのが、この奇妙な現象に対する筆者たちの解答である。
 これは強引な解釈に思えるかもしれない。しかし、社会史というジャンルの研究では、大正期の新中間層家族(サラリーマン一家のはしり)に、「教育的マルサス主義」(子どもの数を少なくして教育投資を集中的に行い、なるべく高い学歴を身に付けさせる行動様式。この名称は産児制限を唱えた人口学者マルサスの名に由来する)が浸透していたことを指摘していて、人口問題と教育とを結びつけて論じる視点はそれほど突飛なものではないのである。
 
 人口学の視点から教育を論じるときの決まり文句として「少子化の進展によって、学校教育のマーケットが縮小する」という議論がある。この議論で忘れられがちなのは、「子どもの数が減る」という人口現象は、教育の世界の外側の条件変化ではなく、実は教育の結果として生じたことがらでもある、ということである。
 もちろん、人口学の研究のなかでも、教育程度が高いほど、婚姻年齢が上昇するということが指摘されていて、教育が人口を規定するという局面が完全に無視されていたわけではない。だが、えてして私たちは、子ども数が減っているという現象を、教育に対する外圧として捉える傾向にないだろうか。
 デモグラフィを人口学ではなく「民衆誌」として捉える視角は、人々の生活の具体的な諸相に焦点を当てることによって、人口が教育に与える影響だけでなく、教育が人口に与える影響を論じる場を提供してくれるのではないだろうか。

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March 29, 2004

『ゆとり教育から個性浪費社会へ』(★★★★)

 岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』(ちくま新書、2004年)を読む。類書にはないこの本の持ち味は、以下に示すように、教育改革を論じる際に有効な視角をいくつか提出したところにあるだろう。

 (1)高度成長期下の教育社会の原理をフォーディズム的な社会統合原理である「ナショナル・メリットクラシー(一国能力主義)」+「禁欲的・自我統一的人格」と把握し、80年代以降の教育改革の流れを、この近代的な能力主義に対する姿勢から分類したこと。

 岩木さんによれば、世紀末に生じた学力論争は、a.「近代能力主義」、b.「脱近代カリキュラム派(ゆとり改革派)」、c.「脱近代能力主義派」という三つの立場にたつ論者たちの争いであったという。b.の立場にたつ論者が、近代能力主義そのものを否定し、個性の伸長と多様なライフスタイルの展開を称揚するのに対し、a.とc.では能力主義そのものは肯定しつつ、それが一国内に限定されるのか、グローバル化した経済社会のなかで再編されるのかという点で見解が異なると整理されている。
 生まれではなく業績によって人間を評価し、地位を配分する原理がメリットクラシーmeritocracyである。この本ではそこにナショナル/グローバルという区別を持ち込むことによって、能力主義には異なるバージョンがあることを示し、いま、私たちに「今後はどのような能力主義を選択すべきなのか」という問いがつきつけられていることを指摘している。

 (2)80年代以降の日本型能力主義の再編を、国際社会との関係・国内の教育政策形成過程の両者から描きだしている点。

 特に秀逸なのは、「国民的コンセンサス」なるものは、政策を立案する人々によって構成されたものに過ぎないと捉えたうえで、教育行政が一般行政と比べて「国民的コンセンサス」をより重視して制度設計を行っていることを指摘し、政府横断的な審議会(具体的には臨教審)と、文部(科学)省との間で「何が国民のコンセンサスなのか」をめぐって生じた争いを整理している部分である(4章)。コンセンサスの構築をめぐる争いのなかで、官僚・研究者や識者・現場教師たちによって構成される「政策コミュニティー」の顔ぶれが代わり、そのなかで「ゆとり改革」が提唱されたという指摘には説得力がある。また、中曽根内閣時代の日米間の貿易摩擦と、米国の圧力による内需拡大への経済政策の転換が教育政策に与えた影響についても、うまく整理されて論じられている。

 (3)教育改革が、子ども・若者のアイデンティティに与える影響と、その社会的な帰結を正面から論じた点。

 タイトルにも用いられた「個性浪費社会(イディオシンクラシー)」とは、近代的な「禁欲的・自我統一的人格」を否定し、多様な個性を称揚する社会である。「ゆとり教育」路線だけではなく、「脱近代能力主義」をめざす教育改革も、「個性」をより重視する社会を生み出すと岩木さんは言う。
 ところで、一見望ましい価値に見える「個性を尊重すること」が、なぜ「浪費」というネガティブな表現で捉えられるのだろうか。そこには三つの理由がある。

 1)現在の「個性尊重」の教育改革が、人格の乖離化をもたらし、
   東浩紀の指摘する「動物化」をとめどなく進行させる可能性がある。

 2)現在の「個性尊重」社会は、実のところ「自己」や「心」なるものが
   新しい市場、資本投資の対象、あるいは資本そのもの(感情労働を想
   定せよ)となっていることを反映した社会である

 3)「個性の尊重」は、経済のグローバル化が進み、能力主義が再編さ
   れることによって生じる階層の二極分化がもたらす深刻な社会的対立
   を緩和するクッションにすぎない。

 岩木さんと同じ教育社会学者の苅谷剛彦さんも「インセンティブ・ディバイト」(意欲格差)というキーワードを用いることで、階層問題と子どもや青年の自己のあり方について議論を展開しているが、この本では階層問題からさらに踏み込んで、社会統合と教育との関連を考えるための結節点として、アイデンティティ問題を取り上げているところに特徴がある。

 日本の教育改革は現在も進行中であり、急速に変化する状況を描きだすことは非常に困難な作業である。「脱近代カリキュラム」と「脱近代能力主義」との異同がよく分からなくなる部分(結局のところ、日本の教育はどこに向かうのか?)、「個性浪費社会」というコンセプトの収まりが悪く、これが実態を把握するための概念なのか、現状を批判するための概念なのか、著者のなかでも混乱しているように見える箇所などもあったが、これは仕方がないことだろう。
 教育改革のあり方を整理し、今後のゆくえを考えるための様々なヒントを得ることができる本である。

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March 27, 2004

「心」はあるのか(★★★)

 橋爪大三朗『「心」はあるのか』(ちくま新書、2003年)を読了。橋爪さんの書いたものを読むと、「ものごとを分かりやすく整理する力のある人だなあ」といつも感心してしまう。
 さて、「心」はあるのかという表題の問いに対して、橋爪さんは「「心」はそれ自体が独立して存在しているのではなく、結果としてあらわれる」と答える。これはどういうことか。言語派社会学者を自認する橋爪さんによれば、「心」とは、私たちが言葉や(それによって枠づけられる)行為をかわすなかで事後的にたちあらわれるという。
 例えば、友人に対して「彼は優しい心の持ち主だ」ということを僕が理解するとしよう。このように感じる僕は、「おととい落ち込んで彼に電話をした時に、真夜中にもかかわらず親身になって話を聞いてくれたこと」「いわれのない理由で面と向かって罵倒された時にも、困った顔をしただけで、その人のことを悪く言わなかったこと」などを思い出しながら、そう理解するわけである。
 ちょっと考えるとあたりまえのことだが、私たちは他人の内面を直接把握することはできず、これまでのやりとりのなかで「きっとこう思っているのだろう」などど推測することしかできない。「心」とは、コミュニケーションのなかで仮構されたものなのである。
 だが、疑問が残る。心が推測によってつくられたフィクションであるならば、どうして私たちは、自分の心のあり方にこだわってしまうのだろうか? あるいは、想像しただけに過ぎないはずの他人の心のことが、なぜこれほどまでに気になってしまうのか。
 橋爪さんは、そういう風に人が感じてしまうことについて、原理的な根拠と歴史的な文脈の両者を示す。
 まず、原理的な解答について。これも当然のことであるが、私たちは自分の内面を知っている(かのように思う)のに対して、他者の内面を知ることができない。僕の理解では、ここにフィクションとしての「心」が現実性を帯びる鍵がある。「内面を知っている」ということは、どういうことか。それは、じぶんの、あるいは他人の「心」を問題にする人間は、少なくとも自らの内面には「心」があることをすでに前提にしてしまうということである。内面をめぐるまなざしの非対称性(自己は透明・他者は不透明)は、「心」について考え、語り、行為する時に、すでに「心」なるものが存在していることが前提であるかのように錯覚させてしまうのである。
 続いて、歴史的な文脈について。橋爪さんは、「心」の問題を多くの人が取り上げるようになった社会的な要因として学校教育の大衆化をあげている。徒弟制で人を育てることをやめた近代社会は、学校教育制度を使って、すべての人に「社会に出て(いつかは)役に立つ(であろう)こと」を伝えるようになった。学校はある意味で画一的な社会を人工的に作り、そこで共通の振る舞いを強制するための装置である。こうしたモノトーンの人工世界は「個的な差異」を際だたせ、「個的な差異、それもわずかな差異としてある自分はなんだろうか」(p.179)という問いを生んでしまう。ほとんどの人が高校まで進学し、長い期間を学校で過ごすようになった僕らの社会は、「私って何?」という疑問を増殖させる社会なのだ。これが橋爪さんの結論である。
 もちろん、このような議論は、社会学的な自己論としてはごく基本的なことに過ぎないのかもしれないが、一般の人に分かりやすく伝わるかたちで整理したという点で、結構便利な本だと思う。ただし、「心」を問う社会になったのは、「教育の大衆化」という量的なファクターだけではなく、教育の中身の変化も関連しているはずなので(「生きる力」「心の教育」!)そこをもっと細かく論じる必要があるだろう。まあ、この本にそこまでを期待するのは、無いものねだりかもしれないが。

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