ほとんど開店休業中ですが
お久しぶりです。じぶんの処理能力を超えた課題に忙殺されて
いるうちに、かなり間があいてしまいました。
このまま風化するのも本意ではないので、もう少ししたら久しぶ
りにまともに更新しようかと思います。
とりあえず、最近読んでおもしろかった本のタイトルだけをならべ
てお茶をにごします。
○最近読んでおもしろかった本・あれこれ
お久しぶりです。じぶんの処理能力を超えた課題に忙殺されて
いるうちに、かなり間があいてしまいました。
このまま風化するのも本意ではないので、もう少ししたら久しぶ
りにまともに更新しようかと思います。
とりあえず、最近読んでおもしろかった本のタイトルだけをならべ
てお茶をにごします。
○最近読んでおもしろかった本・あれこれ
今回も私的メモです。中西新太郎さんの『若者たちに何が起こっているのか』(花伝社、2004年)は、最近紹介した広田さんの本と対照的な立場から現代の若者をめぐる問題が論じられていて、両方をあわせて読むと面白い。
きょうは北田暁大さんの『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス、2005年)に関する私的読書メモ。じぶんにしか分からない妄想なのですが、興味があるかたはどうぞご覧下さい。
お久しぶりです。こ相変わらずぱたぱたしていて、きちんとした更新ができない状態です。 ということで、しばらくはちょっとした読書メモを掲載することにしました(完全な手抜きモードですね)。しばらくは自分のための備忘録的な記事が続きますが、ごかんべんを。
○私的な読書メモ
広田照幸さんの『教育不信と教育依存の時代』(紀伊國屋書店、2005年)を読む。最近の一連の著作と大きく変わるところはないが、講演やシンポジウムでの報告がベースになっているので、かれの議論になじみがない人が広田さんの主張を把握するには良い本だろう。「いまの教育をめぐる状況は悪化するばかりである」、「子どもや若者は凶悪化している」と考えている人は、同書を一読すれば、そのような通念がいかに根拠のないものなのかが分かるだろう。最近の広田さんは、教育のあり方を構想する際に、(まだ見ぬ未来に向けたコミットとして)政治的な価値選択を行うことの重要性を強調する傾向を強めているように感じる。戦後教育学的な枠組みとは異なる「教育と政治」を語るための新しい言葉を探すことができるかどうかはまだ分からないが、そのための着想を数多く得ることができる本であることは確かである。
こんにちは。記事の日付をみるとお分かりのように、だいぶ更新が滞ってしまいました。今もまだ、納期に追われる日々が続いているので、これからしばらくの間、ペースが落ちてしまいます。個人ブログの更新頻度に関心を寄せる方はそう多くないと思いますが、ご容赦くださいませ。
きょうの朝日新聞1面に掲載された記事によれば、文科省が「生活科」の見直しを検討しているらしい。担当者はいちおう「削減ありきではない」と述べてはいるが、先日も中山文部科学大臣が「総合的な学習の時間」の見直しを示唆したことを踏まえると、縮小を伴う「ゆとり教育」の再編は、ほぼ規定路線になったとみて良いだろう(ほんとかな)。
久々の再開後、以前よりもお客さんが多いな、と思っていたんですが、調べてみると特定フレーズで検索してこのサイトにアクセスする方が多いようです。そういえば、この時期って、大学などではレポート提出に追われるころですよね。
「人的資本論」と「シグナリング理論」というキーワードを手がかりにここを訪れてくださった方、どういう課題か分かりませんが、がんばってください。もしよろしければ、他の記事もご覧いただけると嬉しいです(さらに欲を言えば、一言でも感想を書いてもらうと、励みになるのですけれど。まあそれは欲張りすぎですね)。
最後に…。えーと、これは余計なお世話かも知れませんが(そしてそういう風に利用されている根拠もなにもないですが)、レポートの作成にweb上のリソースを使うときには出典をはっきりさせたほうが良いですよ。コピー&ペーストで切り張りしてレポートをつくると、もとの書き手の文体と明らかに違う文章が挿入されてたりしてすぐに分かるみたいですから。
なんだかきょうは教育とまったく関係ないちんたらした記事ですが、ごかんべんください。
何かと世間を騒がしているセンター入試がらみの「ミス」「不祥事」だが、報道を見る限り、これって、たぶん個別学校の定期考査であれば、ほとんど問題にならないことですよねえ。
それがなぜニュースになるかと言えば、1)規模が大きいので、当然ながら利害関係者(特に受験者とその保護者)の数が多い、2)全国規模で一斉に実施される選抜入試なので、公平性・客観性をどこまでも追求しなければならない、ためだろう。
確かに当事者にとってみれば1点が合否を分ける場合もあるわけだから、ミスはあってはならないことかもしれないが、外から見る限りでは、「どっちもどっちだろう」「何もそこまで」と感じてしまう。まあ、このギャップこそが、ニュースとしての価値を生んでいるのかもしれないが。
いっそのこと、全国一斉実施を止めて、モジュール化した試験パッケージを各自で実施する(高校などでやっても良い)ようにすれば、つまらないいさかいがだいぶ減ると思うのだがどうだろう。
朝日新聞の1月23日朝刊に、センター試験の「ミス」に関する記事が掲載されていたが、そこで引用されていた天野郁夫さん(東大名誉教授)のコメントに同感である。
「これだけ肥大化すればミスは必ず起きる。(中略)受験者が50万人を越え、(中略)入学者の選抜試験としての意味が薄れた。(中略)入学試験ではなく、高校での学習到達度を測る学力検定試験に変えることを含めて、根本的な議論をする必要がある」(「問われるセンター試験」朝日新聞2005年1月23日12版「Weekly教育」8面より)
(おまけのメモ)
試験がらみの「不祥事」の理由を詳細に検討すると、試験で担保されているとされる「公平性」「客観性」というものが、結局どのようなものなのかが分かって面白い。
というのも、よく考えてみれば、どんなに厳密な試験を実施し、いくら条件を同じにしようとしても、どうしても違いが生じてきてしまうことは明白である。気温、気候、試験場の建物の大きさ・形状、会場と自宅との距離、受験生の年齢、血液型や星座、当日のバイオリズム(?)…などなど、今の「試験」では問題にならないとされる違いを含めると、いくらでも列挙できる。
そのなかで「統制しなければならない違い」を見ることで、私たちが試験の「客観性」「公平さ」というものをどのようなものとして捉えているのかが分かるはずだ。時間と空間の限定性、実施にあたっての説明の統一、受験生が「個人」として把握され、しかもそれが同一の人物であることの保証…。これって当然のことかもしれないが、実は「慣習」的に決まっているルールでもある。
結論めいたことを書くわけではないけれど、センター試験のあり方がそうそう変わらない場合でも、ニュースの見方をちょっと変えると、また違う面白さを感じることができそうだ。
やっぱりね、という事になるのだろうが、1/18日に、中山文部科学相が母校でのスクール・ミーティングとその終了後の記者会見で「総合的な学習の時間」の削減を示唆する意向を示したことが、各紙で報じられている。
「総合的な学習の時間」に対する僕の意見は、
1)うまくやれれば効果が上がるが、うまくやれるための条件がほとんど整備されていない(教材や人的資源の拡充、準備の時間の確保の手だてがほとんどない)、
2)階層格差の視点からみると、高階層の家族の子どもたちのほうが有利になりやすい
3)ただし、その理念にはもっともな所もあるし、うまく行けば学校知識の消費のあり方や、教科カリキュラムの構造全体をいまの世の中により適合した形に組み替えることもできる
ということで、結論としては、「拙速な導入をはかっている現行政策については反対・ただし「下に手厚く」という方針を明確にし、多量の資源を導入するのであれば、まあやってみてもいいんでないの」とういうことになる。
なので、今回の「ゆとり教育見直し」論は、方向としては評価できるものの、「総合的な学習の時間」を導入したときと同じような拙速さが気になる。だいたい、総合の時間も、誰かの思いつきで発案され、(都合良く編集された・あるいは特定の規範にしたがって発せられた)現場の「声」なるものを支えに、導入されたのではなかったのか。そのことについての省察がないまま、フロアからの「声」に応えようと、懐かしい我が母校で披露した持論が、方針転換の表明として機能するというのはいったい何なのだろう。
教育行政は、政策目標やそのためのデザインに力を入れるだけでなく、それが実施されるプロセスそのものについて、もっと敏感になる必要があるのではないだろうか(まあ、ある程度は、やっているんだろうけどさ)。そうしないと、現場の人達はやってられませんぜ。当然ながら、物事を変えるときには、「変化のためのコスト」がかかる。それを計算にいれてるんでしょうかねえ。
まとまりがないですが、自分のためのメモ代わりの記事でした。
二つの国際比較調査に関する一連の報道で食傷気味かもしれませんが、最近あらためて「学力低下」問題についてあれこれ考えたことをメモしておきます。興味がある人がどれくらいいるか分からないけれど、よろしければご笑覧ください。この問題を考えるときに、最低限、どのような論点を踏まえなければならないのか、についての私的な妄想を書き連ねてみました。
当サイトを訪問してくださっているみなさま、去年の10月から更新がずっと滞ってしまい、すみませんでした。今年からは心を入れ替え、きちんと記事を更新する予定ですので、よろしくお願いいたします。ただし、まずは継続することを目標にしますので、以前よりは記事の分量が少なくなるかもしれません(これまでが長すぎたというつっこみはさておき)。
何はともあれ、今年もよろしくお願いいたします。
このページ、別に誰に向けて書いているわけじゃないのだけれど、このところ雑事に忙殺されているうちに、すっかり更新が滞ってしまいました。
(いるのかどうか分かりませんが)時々巡回されているかた、いましばらくお待ちください。9月の上旬ごろには仕事が一段落する予定ですので、そのあとはぼちぼち再開したいと思います。
逸脱の社会学に「ボンド理論」と呼ばれる考え方がある。アメリカの社会学者、T・ハーシが提唱した理論で、社会的な絆(ソーシャル・ボンド)の強さやその種類が逸脱行為の出現を規定するというのが、その基本的な主張である。ちょっと適切な例ではないかもしれないが、「みんな顔見知りで挨拶がさかんな地域では犯罪が起こりにくい」というのが、この立場にたつ説明のしかたである。ハーシ自身は、社会的な絆として、次の四つをあげている(以下は、T・ハーシ『非行の原因』文化書房博文社、1994年【原著は1969年】より引用)。
(1)愛着 attachment
…集団と取り結ぶ情緒的な絆
(2)コミットメント commitment
…集団から得られるベネフィット
を考慮し、一種の「投資」として同調すること
(3)巻き込み involvement
…日常生活の様々な活動に参加している度合
(4)規範観念 belief
…所蔵する社会の基本的な価値観
(訳書冒頭の訳語解説と、第二章を参考にまとめた)
それだけなら、どうってことない平凡な発想にも思えるが、この理論の面白いところは、逸脱現象について考える際の問いの立て方を逆にしたことである。
普通、私たちは「どうして逸脱は起こるのだろうか?」という問いをたてる。犯罪は、なぜ起こるのか? それは、○○が原因だ……、という風に考えるわけである。ところが、ボンド理論は、この問いを逆にする。つまり、「どうして逸脱が起こらないのか?」と見るわけである。そこには、私たちは誰でも逸脱を犯しうる存在であり、たまたまそうしてないだけに過ぎないという仮定がある。この見方は、興味深い(ちなみに、逸脱理論の系譜では、こうした問いをたてる一群の理論を「コントロール理論」とカテゴライズする)。ハーシは簡潔に次のように主張する。
「逸脱を当然のこととし、同調こそが説明されるべき事柄だとするのである」(訳書、p.23)
世間の耳目を驚かす犯罪事件が起こったとき、僕は(もしかすると、他の人も)「なぜ、そういうことになったのか」と考える。そして事件の全貌を知りたいと思う。そこには、ありえないことが起こった理由を知るために、微に入り細にわたって事件の背景を把握したい、という欲望がある。
そのこと自体を否定するわけではない(だって、自分もそう思うし)。しかし、こうした問いの立て方は、一見すると「○○という事件は、特殊で異常な問題ではない。この社会に生きる私たちすべてに関わる問題だ」と主張しているように見えながら、実のところは、事件をわたしのあり方から切り離し、自分とは関係ないもの、無縁のものとして位置づけたいという、欲望の発露なのではないか。
原因と結果のつながりを知りたいと思うわたしは、逸脱がおこる構図を客観的にながめたいわたしであり、それは、「もしかすると当事者であったかもしれないわたし」とは違う場所に位置するように思える。これはある意味で、素朴で「健康的」(あるいは「健全」)な発想である。だが、じぶんと「事件」とを無縁にしたいという欲望を意識しないまま、客観的な事実を明らかにしてほしいと願うことには、ときとして予期せぬ結果(過剰な報道によるプライバシーの侵害、「悪しき原因」を探ることを通じた、特定の事象や人々の排除などなど)をもたらしてしまう危険性がある。
「ありえないことが起こった」のではなく、じぶんの日常生活もまた、別なかたちであるにせよ、一つの「ありえなさ」の上に立脚しているという見方を取ること。そのうえで、なぜ自分は当事者ではないのかということを考えること。ボンド理論が提起するこうした問いの転換は、ありえない事件に遭遇したときに感じる私たちの不安のでどころを直視するために使えるツールである。
「はてなダイアリー 東京猫の散歩と昼寝」さんのこの記事をみて、そんなことを考えました。
よくあることだが、試験というものを、資格試験と競争試験(選抜試験)の二つに分けて考える見方がある(ような気がする)。ここでいう資格試験は、ある一定の基準を満たしたものすべてに資格を与えるような試験、競争試験は集団のなかの相対的な位置づけを基準にして、ある一定の人数だけを選抜するタイプの試験を指す。
そういう風に分けてみると、だいたい競争試験のほうが評判が悪い。「競争に勝つことだけが目的になってしまい、勉強することの意味がなくなってしまう」「試験は本来、学習したことがどれくらい定着したのかを測定するために行われるものだ。競争による序列づけは子どもにプレッシャーをかけるだけで教育的ではない」といった意見がある。
この議論をつきつめると、学校で伝えるすべての知識を資格化(単位化)して、子どもたちが「自分に必要である」と思った知識や技術だけを身につける、自動車教習所型の学校構想が登場する。
ただ、個人的な意見を言わせてもらうと、自動車教習所型の学校は、「何が自分にとって必要なのか」ということが判断できることが前提になっていて、自分に必要なことがらを充分に対象化することができない子どもにはなじまないような気がする。
「嫌いな野菜を食べないと大きくなれない」というたとえは変かもしれないが、学校で伝達する知識の多くは、本人が後になってその有用性を自覚するような性格を持っていて、「自分で好きなものを選んで」という論理だけでは充分に伝えることができないような気がする。そして、競争による動機づけは、(今の)自分にとっては意味を持たないことがらを修得させるための道具としては、それなりの有効性を持っている。
「競争こそが一番の手段だ」と言いたいわけではないのだが、その副作用を充分承知したうえで、人を動かす手段として競争のしかけをうまくつかってゆくこともまた必要なのではないだろうか。あらゆる試験を資格化してゆくことで、すべてが解決するわけではないと思う。
朝日新聞のこの記事をみて、思ったことをつらつらと書いてみました。
最近、小学校に英語教育を導入する動きをあちこちで目にするが、ついに「国語以外のすべての科目」を英語で授業する小学校まで登場したようである(詳しくはこの記事を参照))。
基本的に、筆者は現行の条件のままで英語教育を小学校に導入することには反対である。以前にも少し書いたように、学校に投入されている資源(人・モノ・時間)には限りがあり、しかも近年はそれが削減される傾向にある。そんななかで新しい課題を学校に押しつけても、うまくいくはずがない。英語学習を組み込んだ新しいカリキュラムや教材を開発し、専門の教員を増やすだけの潤沢な予算を用意できれば話は別だが、そういうこともなく、「特区申請!」「英語導入!」というスローガンをぶちあげるのは、自治体の首長の人気とりとしか思えない。
それに、小学校で英語に触れる機会を増やしただけで語学をよりスムーズに習得できるという前提自体が怪しい。僕は学校教育で音楽の授業をうけ、そこでピアニカやたて笛などなどの様々な楽器の演奏法を習ったはずだが、人様に腕前を披露できる楽器があるわけでもない。語学と楽器の演奏を同列におくのは乱暴かもしれないが、これらのスキルは「技術をマスターしたいという熱意」か「それができないと困ってしまう状況」のどちらかがないと、なかなか上達しないように思われる。大人たちだって、英会話学校に通えばすべて丸く収まるわけじゃないしね。
だいたい、子どもたちが学校生活全般で「みんなの前で大きな声で発表すること」や「普段とはちょっと違う振る舞いをすること」に抵抗を感じなくなれば、中学校から始めたって、英語教育の成果はかなりあがるはずである。これは僕の貧困なイメージに過ぎないのかもしれないが、現在の中学校で行われている英語の授業の多くは、生徒が英語らしい発音をすることに照れていたり、授業に消極的にしか参加してないように思われる。そっちを改めるほうが迂遠なようで実は近道なのではないだろうか(でも、こちらの課題のほうが「新しい英語の時間」を導入するよりも大変かもしれない)。
でも、冒頭で紹介した学校のように、多くの資源を投入して「学校生活のほとんどで英語を使う環境」を用意することができれば、話は別かもしれない。ただし、ここでも少し不安が残る。それは「セミリンガル」を生み出してしまうリスクが、こうした実践を構想する時に、どの程度勘案されているのかが分からないためである(記事で紹介されているだけではそのへんが伺えないということもある。実際はきちんとしたサポート体制があるのかもしれない)。
「セミリンガル」とは、複数の言語が使えるものの、いずれの言語も充分に習得しきれていない状態をさす用語である。複数の言語のうち、いずれかの言語の習得の度合が一定程度に達しない場合には、抽象的な思考を行うこと自体が困難になってしまうこともあるようである。
そんな議論を耳にすると、英語漬けで小学校時代を過ごした子どもたちが、ものごとを考える基盤としての言語を充分にマスターできなかったらどうなるんだろうと、人ごとながら気になってしまう。抽象的な思考力を培う様々な教科(例えば理科や算数など)を英語で教授してしまうと、学校外で使う「日常のことば」と「学校のことば」が乖離してしまうということにはならないのだろうか。
まあ、そういう学校に子どもをやる保護者は、ある意味で教育意識がかなり高い人たちだから、そのへんのことは充分承知していて、しっかりサポートするのかもしれない。個人的には、「英語漬けの小学校」の教育内容そのものよりも、どんな保護者がこの学校を選択するのか、ということが気になる。
最後に、英語の早期教育について読みやすくまとめられた記事が「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載されていたので、興味がある方はこちらをご覧下さい。(「バイリンガル教育の科学。(前編)(後編)」)。
じぶんのためのメモ | ニュース | 学問・資格 | 日記・コラム・つぶやき | 書籍・雑誌
Recent Comments