October 02, 2005

ほとんど開店休業中ですが

 お久しぶりです。じぶんの処理能力を超えた課題に忙殺されて
いるうちに、かなり間があいてしまいました。

 このまま風化するのも本意ではないので、もう少ししたら久しぶ
りにまともに更新しようかと思います。

とりあえず、最近読んでおもしろかった本のタイトルだけをならべ
てお茶をにごします。


 ○最近読んでおもしろかった本・あれこれ

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April 10, 2005

やみくもに怖がるのはよしましょう(読書めも)

 今回も私的メモです。中西新太郎さんの『若者たちに何が起こっているのか』(花伝社、2004年)は、最近紹介した広田さんの本と対照的な立場から現代の若者をめぐる問題が論じられていて、両方をあわせて読むと面白い。

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April 09, 2005

皮肉屋の墓場(読書めも)

 きょうは北田暁大さんの『嗤う日本のナショナリズム』(NHKブックス、2005年)に関する私的読書メモ。じぶんにしか分からない妄想なのですが、興味があるかたはどうぞご覧下さい。

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April 06, 2005

走り書きのメモがわりに

 お久しぶりです。こ相変わらずぱたぱたしていて、きちんとした更新ができない状態です。 ということで、しばらくはちょっとした読書メモを掲載することにしました(完全な手抜きモードですね)。しばらくは自分のための備忘録的な記事が続きますが、ごかんべんを。

 ○私的な読書メモ

 広田照幸さんの『教育不信と教育依存の時代』(紀伊國屋書店、2005年)を読む。最近の一連の著作と大きく変わるところはないが、講演やシンポジウムでの報告がベースになっているので、かれの議論になじみがない人が広田さんの主張を把握するには良い本だろう。「いまの教育をめぐる状況は悪化するばかりである」、「子どもや若者は凶悪化している」と考えている人は、同書を一読すれば、そのような通念がいかに根拠のないものなのかが分かるだろう。最近の広田さんは、教育のあり方を構想する際に、(まだ見ぬ未来に向けたコミットとして)政治的な価値選択を行うことの重要性を強調する傾向を強めているように感じる。戦後教育学的な枠組みとは異なる「教育と政治」を語るための新しい言葉を探すことができるかどうかはまだ分からないが、そのための着想を数多く得ることができる本であることは確かである。

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March 08, 2005

ほそぼそと進行中

 こんにちは。記事の日付をみるとお分かりのように、だいぶ更新が滞ってしまいました。今もまだ、納期に追われる日々が続いているので、これからしばらくの間、ペースが落ちてしまいます。個人ブログの更新頻度に関心を寄せる方はそう多くないと思いますが、ご容赦くださいませ。

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February 04, 2005

生活科の見直しを検討だってさ

 きょうの朝日新聞1面に掲載された記事によれば、文科省が「生活科」の見直しを検討しているらしい。担当者はいちおう「削減ありきではない」と述べてはいるが、先日も中山文部科学大臣が「総合的な学習の時間」の見直しを示唆したことを踏まえると、縮小を伴う「ゆとり教育」の再編は、ほぼ規定路線になったとみて良いだろう(ほんとかな)。

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January 24, 2005

レポートの季節だからか…

 久々の再開後、以前よりもお客さんが多いな、と思っていたんですが、調べてみると特定フレーズで検索してこのサイトにアクセスする方が多いようです。そういえば、この時期って、大学などではレポート提出に追われるころですよね。

 「人的資本論」と「シグナリング理論」というキーワードを手がかりにここを訪れてくださった方、どういう課題か分かりませんが、がんばってください。もしよろしければ、他の記事もご覧いただけると嬉しいです(さらに欲を言えば、一言でも感想を書いてもらうと、励みになるのですけれど。まあそれは欲張りすぎですね)。

 最後に…。えーと、これは余計なお世話かも知れませんが(そしてそういう風に利用されている根拠もなにもないですが)、レポートの作成にweb上のリソースを使うときには出典をはっきりさせたほうが良いですよ。コピー&ペーストで切り張りしてレポートをつくると、もとの書き手の文体と明らかに違う文章が挿入されてたりしてすぐに分かるみたいですから。

 なんだかきょうは教育とまったく関係ないちんたらした記事ですが、ごかんべんください。

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January 23, 2005

まあ、そう目くじらをたてなくても。

 何かと世間を騒がしているセンター入試がらみの「ミス」「不祥事」だが、報道を見る限り、これって、たぶん個別学校の定期考査であれば、ほとんど問題にならないことですよねえ。

 それがなぜニュースになるかと言えば、1)規模が大きいので、当然ながら利害関係者(特に受験者とその保護者)の数が多い、2)全国規模で一斉に実施される選抜入試なので、公平性・客観性をどこまでも追求しなければならない、ためだろう。

 確かに当事者にとってみれば1点が合否を分ける場合もあるわけだから、ミスはあってはならないことかもしれないが、外から見る限りでは、「どっちもどっちだろう」「何もそこまで」と感じてしまう。まあ、このギャップこそが、ニュースとしての価値を生んでいるのかもしれないが。

 いっそのこと、全国一斉実施を止めて、モジュール化した試験パッケージを各自で実施する(高校などでやっても良い)ようにすれば、つまらないいさかいがだいぶ減ると思うのだがどうだろう。

 朝日新聞の1月23日朝刊に、センター試験の「ミス」に関する記事が掲載されていたが、そこで引用されていた天野郁夫さん(東大名誉教授)のコメントに同感である。

 「これだけ肥大化すればミスは必ず起きる。(中略)受験者が50万人を越え、(中略)入学者の選抜試験としての意味が薄れた。(中略)入学試験ではなく、高校での学習到達度を測る学力検定試験に変えることを含めて、根本的な議論をする必要がある」(「問われるセンター試験」朝日新聞2005年1月23日12版「Weekly教育」8面より)

(おまけのメモ)

 試験がらみの「不祥事」の理由を詳細に検討すると、試験で担保されているとされる「公平性」「客観性」というものが、結局どのようなものなのかが分かって面白い。

 というのも、よく考えてみれば、どんなに厳密な試験を実施し、いくら条件を同じにしようとしても、どうしても違いが生じてきてしまうことは明白である。気温、気候、試験場の建物の大きさ・形状、会場と自宅との距離、受験生の年齢、血液型や星座、当日のバイオリズム(?)…などなど、今の「試験」では問題にならないとされる違いを含めると、いくらでも列挙できる。

 そのなかで「統制しなければならない違い」を見ることで、私たちが試験の「客観性」「公平さ」というものをどのようなものとして捉えているのかが分かるはずだ。時間と空間の限定性、実施にあたっての説明の統一、受験生が「個人」として把握され、しかもそれが同一の人物であることの保証…。これって当然のことかもしれないが、実は「慣習」的に決まっているルールでもある。

 結論めいたことを書くわけではないけれど、センター試験のあり方がそうそう変わらない場合でも、ニュースの見方をちょっと変えると、また違う面白さを感じることができそうだ。

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January 19, 2005

現場の「声」と思いつきだけの転換

 やっぱりね、という事になるのだろうが、1/18日に、中山文部科学相が母校でのスクール・ミーティングとその終了後の記者会見で「総合的な学習の時間」の削減を示唆する意向を示したことが、各紙で報じられている。

 「総合的な学習の時間」に対する僕の意見は、

 1)うまくやれれば効果が上がるが、うまくやれるための条件がほとんど整備されていない(教材や人的資源の拡充、準備の時間の確保の手だてがほとんどない)、
 
 2)階層格差の視点からみると、高階層の家族の子どもたちのほうが有利になりやすい

 3)ただし、その理念にはもっともな所もあるし、うまく行けば学校知識の消費のあり方や、教科カリキュラムの構造全体をいまの世の中により適合した形に組み替えることもできる

 ということで、結論としては、「拙速な導入をはかっている現行政策については反対・ただし「下に手厚く」という方針を明確にし、多量の資源を導入するのであれば、まあやってみてもいいんでないの」とういうことになる。

 なので、今回の「ゆとり教育見直し」論は、方向としては評価できるものの、「総合的な学習の時間」を導入したときと同じような拙速さが気になる。だいたい、総合の時間も、誰かの思いつきで発案され、(都合良く編集された・あるいは特定の規範にしたがって発せられた)現場の「声」なるものを支えに、導入されたのではなかったのか。そのことについての省察がないまま、フロアからの「声」に応えようと、懐かしい我が母校で披露した持論が、方針転換の表明として機能するというのはいったい何なのだろう。

 教育行政は、政策目標やそのためのデザインに力を入れるだけでなく、それが実施されるプロセスそのものについて、もっと敏感になる必要があるのではないだろうか(まあ、ある程度は、やっているんだろうけどさ)。そうしないと、現場の人達はやってられませんぜ。当然ながら、物事を変えるときには、「変化のためのコスト」がかかる。それを計算にいれてるんでしょうかねえ。

 まとまりがないですが、自分のためのメモ代わりの記事でした。

 

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January 12, 2005

「学力低下」問題についての覚え書き

 二つの国際比較調査に関する一連の報道で食傷気味かもしれませんが、最近あらためて「学力低下」問題についてあれこれ考えたことをメモしておきます。興味がある人がどれくらいいるか分からないけれど、よろしければご笑覧ください。この問題を考えるときに、最低限、どのような論点を踏まえなければならないのか、についての私的な妄想を書き連ねてみました。

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