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<title>pass the note around</title>
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<description>現代社会と教育に関する本を紹介するサイトです（当面のところは）。</description>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/10/__dd65.html">
<title> 『社会の教育システム』７章の要約メモ</title>
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<description>　こんにちは。繁忙期に入り、続きの記事を投稿するのが遅れてしまいました。ルーマン...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　こんにちは。繁忙期に入り、続きの記事を投稿するのが遅れてしまいました。ルーマン本も、これで最終章です。社会システム理論の言葉で、教育的な事象を再記述することの意義が示される部分です。難解ですが、ルーマン理論を教育研究に応用する可能性を考えるうえで欠かせない章だと思いました（最後の節は、ルーマン的な「社会学的啓蒙」の意義を教育に即して繰り返し強調しているだけ、のようにも読めますが）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;第七章　自己記述&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;I　＜差異の一体性＞としてのシステム（pp.235-237）&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;　システムは作動に用いる区別を自らに適用することはできないが、システム／環境の差異を自己の内部に転写し、自らを記述することができる。本章の目的は、セカンドオーダーの観察者として教育システムの自己記述を把握することにある。教育システムの自己記述は、理念／実践の差異図式を用いて、高い理念を掲げることによってなされる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;&lt;br /&gt;II　旧ヨーロッパ的・身分制的な＜自然への依拠＞（pp.238-241）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　18世紀ごろまでの旧ヨーロッパ的な社会秩序（成層化された社会）においては、「自然」という概念を用いて教育を論じていた。洗練さが自然な振る舞いとして示されることが、階層的な秩序のもとでの教育の目的であった。機能分化したシステムへの移行は、自然概念の廃棄ではなく、そこに組み込まれる人々の対象範囲が拡大するなかで進行した。聖職者ではなくプロフェッショナルな職業教育を受けた教師を登用する動きも同時に進行し、階層的／宗教的な秩序からの離脱が図られた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;III　自然をはじめとする＜理念＞の無力化（pp.241-249）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　機能的分化が進むにつれ、「自然」というシンボルは説得力を失い、「自由」という主題が浮上する。そこでは、自由な主体を因果的に統制するというパラドックスが生じることとなり、その乗り越えのために「価値」というシンボルが使用されるようになる（が、価値だけでは情報が不足している）&lt;br /&gt;　他方で、自然から自由と価値というシンボルを使用することに伴って、教育を「技」とみなす記述も存続困難になり、その代わりに教育を「学術」の応用として理解する試みが登場する。こうした自己記述の変化は、近代的な学校組織の普及によって支えられていた。&lt;br /&gt;　これらはみな、機能システムが分離したという事実を事後的に振り返ることで明らかになる事態である。教育は（階層的な秩序を前提とした）道徳の振興を断念し、教育システム内部で生じたコミュニケーション可能性の過剰をシステム固有の論理で処理するようになる。教育の機能が家から学校に、家父から教師へと移行したこと、「教育的授業」という観念によって授業システムが教育に組み込まれるようになったこと、教育の自己記述の試みとしての教育学の登場と、授業の担い手である教師／教育を自己省察し、組織的な基盤を構想する教育エスタブリッシュメントとの分化、これらの動きが、システムが機能分化するなかで生じることになった。&lt;br /&gt;　教育システムが機能分化を遂げるなかで、理想／実践という差異図式は、理念の称揚から絶えざる改革へと、その適用のあり方が変化することになった。これは、教育の自照が作動のなかで遂行的に達成されることになったことを意味する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;IV　＜不確定性定式＞による自己記述の可能性（pp.249-256）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　前節の事態は、「教育システムの自己記述の目標は、教育システムの一体性についてコミュニケーションすること」［そのことによって、自己塑成的システム（の一体性）を再／生産すること］（p.249）と言い換えることができる。このようにことがらを把握すると、（逆説的に）教育を一体性ではなく、差異によって捉えることになる（自然／反自然、完全性／有用性、啓発／職業教育などなど）。&lt;br /&gt;　自己記述による差異の産出という逆説的な事態を、スペンサー＝ブラウンは「形式中への形式の内部転写」（p.251）として捉えた。差異の産出がもたらす不定性をシステムは処理しなければならないが、そのために用いられる形式が「不確定性定式」である。不確定性定式は、システムに内部転写された内部（自己参照）／外部（外部参照）の区別の「境界を越えて往復することにより、どちらの側をも評価できるもの」（p.252）である 。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;・諸機能システムにおける不確定性定式&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(1)宗教システム…神&lt;br /&gt;　　(2)経済システム…不足［希少性］原理　&lt;br /&gt;　　(3)学術システム…「限定可能性」&lt;br /&gt;　　(4)法システム…正義&lt;br /&gt;　　(5)政治システム…正統性&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　→不確定性定式が生じた理由は、「機能システムが分離され、可能性の過剰が生じ、当該システムがその縮減を図らなければならなくなったことに、求められる」（pp.255-256）&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;V　＜カリキュラム改訂としての改革＞と啓発の危機（pp.256-268）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育システムがはじめに用いた不確定性定式は「ビルドゥング［啓発、教養］」であった。ビルドゥングは、自然（的な秩序を有した成層社会）への従属という観念を、＜個人＞と＜真理＞という脱（成層）社会的な概念によって置き換え、主体の内部参照と外部参照すなわち、自分自身／世界との関係として理解された（pp.259-260）。&lt;br /&gt;　「＜内なる無限性＝主体＞、＜外なる無限性＝世界＞を、＜歴史としての精神＞」（p.261）によって調和する人文主義的教育学が、ビルドゥング概念を用いた自己記述の典型であるが、そこには意味の社会的次元への考慮が欠如していた（社会性の次元が道徳に縮減されていた）ために。教育システム全体を捉えることができなかった。19世紀の「精神科学的」教育理論でビルドゥング概念の刷新が図られたが、「教育学が自己組織化と自照を頼りにするしかないのはなぜか、どこまで頼りにできるのかを、教育学に向かって説明するような社会理論は、見られない」（p.265）&lt;br /&gt;　こうした状況のなかで20世紀の教育システムでは、ビルドゥングという不確定性定式が解体することになった。教育の一体性に関するコミュニケーションのなかで現代的な教育課題として提示されているテーマは、①生涯教育のなかで重視された＜学習能力の学習＞、②絶えざるカリキュラム改訂として具現化する＜教育内容の決定による基礎づけ＞であるが、これらはいずれも、ビルドゥング概念の解体を物語っている。それでは、教育システムは、ビルドゥングに代わる新しい自照理念を生み出すことができるのか？　次節以降では、この問いについて考える。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;VI　制度改革よりも＜未知の未来＞への対応力を（pp.268-271）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　社会的次元を考慮すると、啓発を通じた解放（自由の獲得）というビルドゥングの理念の弱点が露呈する。契約の自由によって、社会的次元の不定性を縮減しようとしてもそこには限界があり、現代の諸機能システムは、リスクや不安などといった、自己が生み出す不確かさをテーマとしたコミュニケーションを（別様な形式で）行うようになっている。&lt;br /&gt;　教育システムにおいても上記の事態は例外ではない。「したがって、教育すべき若者を、未知のままであり続ける未来に対応できるようにするための教育学が、なければなるまい」（p.270）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　→既知の知識の学習から、決定することの学習（未知を決定のリソースとし、無知を活用する）の重視へ&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;VII　主体理論から＜自照理論＞へ（pp.271-278）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/strong&gt;　本書で試みたことは、社会理論によって教育システムを観察し、再／新記述（リディスクイリプション）することであった。これは教育システムの自照理論である（と社会システム理論からは観察される）教育学に対する批判的な分析ではなく、システム理論的な再記述だけが真実だと主張するものでもない。&lt;br /&gt;　自照理論は、全体社会の秩序が成層的に分化したものから機能的に分化したものへと移行することによって生じるものであり、各機能システムはそれぞれの自照理論を有している（ex：学術システムの自照理論は「認識論」）。教育システムの自照理論は、それぞれが信奉する理念によって実態を断罪するのではなく、（教育システムの一部しか把握できない従来的な）教育学的なコミュニケーションに内閉するものでない。それは、授業というミクロ多様性に立脚した理論である。&lt;br /&gt;　学術システムの一環をなす社会理論による教育システムの再／新記述は、教育学者たちのコミュニケーションと接続することによって、教育学に影響を与え、教育システムの自己記述を自らの論理に即した自照理論的なものへと変える可能性がある（「二流の学問」ではなく、教育システムの自己記述としての教育学が登場する）。本書はこうした意図のもとで、社会理論が教育学とコミュニケートする試みである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-10-12T17:56:25+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/__98b6.html">
<title> 	  『社会の教育システム』６章の要約メモ</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/__98b6.html</link>
<description>　こんにちは。おとといに自宅に戻ってきました。帰省で減退した勤労意欲の立て直しを...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　こんにちは。おとといに自宅に戻ってきました。帰省で減退した勤労意欲の立て直しをはかるこのごろです。沖縄ではすっかりご無沙汰していた方と久々にお会いする機会があり、（良い意味で）以前と変わらずお元気な姿をみて、励まされる気がしました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　今回は、６章の要約メモをアップします。後半部分から抽象度が一層上がり、より難解になると感じるのは僕だけでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それはさておき、そこで提示された理念や計画の善し悪しを抜きにして、いわゆる「教育改革」をぶちあげることが果たす社会的な機能を淡々と（でもないか）記述する後半部分がとくに興味深い箇所でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「どうせ外部の者に現場のことは分からないんだ」という教師のぼやきや、「昨日の敵は今日の友」とばかりにめまぐるしく変化する学校組織やカリキュラムは、教育の世界を知る人にとってはありふれたことがらかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ところがルーマンさんは、これらの背景にある＜教職のプロフェッション化＞＜教育組織の改編＞に、システムのパラドックスを隠蔽し、そのままでは空疎にすぎない「教育する意図」にある内実を付与する働きを見いだしています。教育学的な議論ではネガティブなことがらとして把握されがちな事象に、社会的な機能があることを発見するところに、ルーマンの議論の面白さ（と難しさ）があるように思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;第六章　再特殊化──プロフェッションと組織&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;I　＜合理性＞という一般的基準の断念（pp.197-199&lt;/strong&gt;）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育システムにおいて、個人の行為を合理性という一般的な基準で捉えることは不可能である。合理性は＜合理的選択＞と＜理性的な合意＞の二つの観念から成り立っているが、授業における教師と生徒の行為は、これらの基準にとって捉えることができない。&lt;br /&gt;　本章では、合理性という一般的な基準を（各機能システムに即したかたちで）再特殊化する仕組みに着目したい。全体社会における合理性の再特殊化メカニズムは、＜組織＞と＜プロフェッション＞である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;II　＜再特殊化＞の端緒（pp.199-203）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　伝達意図は教育システムのあらゆるコミュニケーションに当てはまるシンボルであるが、このシンボルは一般的であるがゆえに、具体的なコミュニケーションの内実を導くものではない。この問題を捉えるために有効な枠組みの一つに、パーソンズの包括化／再特殊化の図式がある。機能システムが分離するなかで、全体社会は＜プロフェッション化＞と＜組織化＞によって、包括的になった意味連関を再特殊化する。&lt;br /&gt;　もう一つの、再特殊化の可能性は、理念のレヴェル／実践のレヴェルの区別を用いることにある。理念のレヴェルはプロフェッション化に、実践のレヴェルは組織化に対応する。&lt;br /&gt;　学校が「国家的施設」となる歴史を振り返ると、学校が国家行政に依存して存立していることが明らかになる。そのため、われわれは、授業という相互行為システムの「＜作動における自主性＞」（p.203）から目をそらされる傾向にあるが、教育的コミュニケーションの再特殊化のあり方を捉えるために、授業が生起する領域に目を向けて、プロフェッション化と組織化について分析する必要がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;III　リスクに備える＜プロフェッションへの帰属＞（pp.203-210）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　従来的なプロフェッションの社会学は、プロフェッションと個人の利益の最大化の区別を重視しており、プロフェッション／組織の区別は副次的なものであった。個人の利益の最大化という観点からすると、（専門）知識が重視されることになるが、知識の有無だけでプロフェッションを把握することはできない。&lt;br /&gt;　これに対して、システム理論はプロフェッションの特殊性を以下の点から把握する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; (1)専門的な介入の成否が不確かであるために、プロフェッションは自らの仕事の領分を囲い込む。　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; (2)プロフェッションが有する知識は、物事を達成する手段としてではなく、不確かな状況に対応できる様々な＜型＞を提供する役割を有している。　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; (3)プロフェッションが信奉する価値は、各専門領域で用いられる区別である。病気／健康、無教養／教養という区別を用いて、プロフェッションはクライエントに接する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; (4)プロフェッションの特殊性は、人格と役割の区別にある。「まさに教職の場合、教師の人格投入が方法論や技巧よりも重視される」（p.206）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・教職のプロフェッション化：18世紀後半に様々な改革要求が登場。&lt;br /&gt;　　(1)「天職」としての教職概念の浸透&lt;br /&gt;　　(2)教員会議による教育活動の統制&lt;br /&gt;　　(3)教師の自律性の増大&lt;br /&gt;　　(4)教職獲得へのインセンティブを確保する諸制度の導入。専門教育の出現&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; ─→組織の問題は軽視される。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; ─→教職のプロフェッション化の度合いは、学校段階によって異なる。&lt;br /&gt;　&amp;nbsp; &amp;nbsp; 　　（上級学校ほど、教職プロフェッションが重視されなくなる）&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; ─→教職プロフェッションは、教師たちに「不確かさの下での仕事に取り組む心構えを用意させ、当該のプロフェッションにおいて通常の範囲で力を尽くしさえすればどんな非難も受けずにすむことを確信させるという、潜在的な機能を果たす」（p.209）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;IV　＜階統的組織化＞の限界（pp.210-215）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　国家行政による全国民のための学校システムの整備は、組織の局面で生じる教育システムの再特殊化を推し進めていった（cf．学校と大学の差異化と学年制の導入）。&lt;br /&gt;　教育システムの諸組織は、教育計画（カリキュラム）によって＜教育する意図＞を再特殊化する。近代的な学校組織のカリキュラムにみられる同型性は、包括的な教育コミュニケーションの再特殊化がカリキュラムによって果たされていることを物語っている。だが、それを指摘するだけでは不十分で、実際にカリキュラムが果たす機能を明らかにしなければならない。授業という平凡でないマシーンを把握するためには、合理性原理にもとづく階統的な組織を前提とする旧来の組織論ではなく、システム論的な組織論が必要となる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;V　＜自己塑成的システム＞としての組織（pp.215-223）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　現代的な組織論の一つである制度学派の組織論は、価値や文化を重視することで、組織の理論と再特殊化の問題を混同しており、組織における再特殊化の問題を適切に取り扱うことができない。われわれは、両者を切り離したシステム論的な組織論を採用する。この理論は、自己の決定から決定を再生産する、すなわち、決定のコミュニケーションが連鎖するなかで自己を塑成するシステムとして組織を把握する。&lt;br /&gt;　学校組織は、時間割を決定し学校段階を分化させる（≒カリキュラムを決定する）ことによって、教育するという善き意図に形式を与える。授業という相互行為はそれ自身が組織システムとは別の次元で展開する自己塑成システムであるが、組織は授業システムの環境を縮減し、相互行為の背景を提供する役割を持っている。&lt;br /&gt;　教育システムにおける＜善き意図＞の再特殊化は、組織システムと、プロフェッション同士の／プロフェッションとクライエントとの相互作用の協力関係が不可欠である。とりわけ教育システムの組織においては、授業という相互作用システムが構造的に強力な地位を占めている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;VI　改革は改革を呼ぶ（pp.223-226）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/strong&gt;　プロフェッション（による相互作用）と組織によって＜善き意図＞が再特殊化されると、意図という一般的なシンボルに代わり、再特殊化により整序された領域の矛盾した諸要請に応える多種多様な教育イデオロギーが登場する（ex：機会均等の実現、階層や性による不平等の撤廃、学級の成績向上、遅れた者の向上など）。&lt;br /&gt;　教育は、イデオロギー間の矛盾に「絶えざる改革」を用いることで対応する。「再特殊化によって出現する諸矛盾の圧力は、＜通常の作動＞と＜改革の努力＞の共存によって緩和される。これによって、問題は時間の次元に移され、［同時ではなく］前後して現れる矛盾として無害化される」（p.226）&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-09-30T09:12:25+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/__ccda.html">
<title> 	  『社会の教育システム』５章の要約メモ</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/__ccda.html</link>
<description>　帰省中で勤労意欲が減退しているこのごろですが、少しは仕事を進めておかないと、あ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　帰省中で勤労意欲が減退しているこのごろですが、少しは仕事を進めておかないと、あとでひどいことになるのでがんばります。&lt;/p&gt;　&lt;p&gt;今日は第五章の概要メモを掲載します。「分離」は、&lt;span lang=&quot;EN-US&quot; style=&quot;font-size: 10.5pt;&quot;&gt;Ausdifferenzierung（分出という訳語が多いような…）を意味します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ちなみにこの章は、教育システムが機能システムとして分出する様相を再記述している部分です。他のシステムとの関係が、あくまでも教育システム独自の論理に即したかたちで変換されている（パラドックス展開）という点が、面白いところだと思います。あたりまえと言えばあたりまえなのかもしれませんが。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;第五章　教育システムの分離&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;I　社会構造の変化と＜分離＞の歴史（pp.151-159）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育システムの分離は、国家官職の整備（政治システム）、市場経済と分業の発達（経済システム）、宗教のプロフェッション化（宗教システム）の分離に対応すべく生じたできごとである。経歴という媒質、相互作用としての授業の分析は、教育システムが機能システムとして分離する様相を明らかにする。経歴という独特の媒質が優位を占めること、授業という特殊な相互作用システムが形成されるという事実は、教育システムにおけるコミュニケーションが、他のシステム（政治システムや経済システムなど）とは異なる論理で作動することを意味する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・機能的分化と分業の違い&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　分業がある種の全体性を前提としているのに対し、システム理論による機能的分化の記述は「分離された様々の部分システムがそれぞれ高い効率を示すことを確認するが、同時に、それは課題とされる全社会的な秩序化（たとえば階統制）の断念を伴うことを強調する」（p.157）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　→システムが分出すると、システム内部に過剰なコミュニケーション可能性が生まれる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　→予め設定されている社会秩序をあてにすることができず、自己組織化によって克服するしかない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　cf「教育的授業」という交配種的な表現（p.158）教育のために養成された担い手と教育方法を前提&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「教育システムにおいても、システムの分離と、外部の社会的な支えの消失と、自律性と、自己組織化への内発的強制との、関連が証明されるということを指摘している」（p.158）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;II　分離された相互行為システムの肥大化（pp.159-166）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育システムの分離は（次世代の担い手である子どもの誕生だけではなく）、学校の設置と経営を前提とする（p.160）。ただし、教育のハード面の整備は、教育システムにとっては外部環境に属するものでしかない。システムの分離は、そこで生起するコミュニケーションを他の領域のそれとは異なる論理で自由に展開することを支える「『技術的』発見に立脚すること」が多い（p.162）が、教育システムにおけるそれは、学級における相互行為システムである。授業という相互行為システムと授業を自己の目的とする学校という組織が独特の共生関係をとり結ぶことによって、教育システムの分離が可能となる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・システムの分離を可能にする「技術的」発見&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　経済システム…鋳貨&lt;br /&gt;　　政治システム…官職&lt;br /&gt;　　マスメディア・システム…大衆への伝達技術&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　教育システム…授業という相互行為システム&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・教育システムの自己増殖&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「若者が学校や大学で過ごす歳月は──たとえば家族をもつこと、経済的に自立することをといった別の大事を度外視して──長くなる（中略）[教育システムの増殖は]意味の喪失、世界の喪失、アイデンティティの喪失といった幻影痛を生む＜歴史の切断手術＞である」（p.165）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　→クライエントが教育システムの施設に通って過ごす期間の長さは、「自然的」基準を超えている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;III　教育システムにおける＜パラドクスの展開＞（pp.166-180）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　機能分化した諸システムは自律性を高めると同時に、相互依存性を強める。各機能システムは、他のシステムに対する依存を、自らのシステム内で生じるパラドックスという形式で取り扱い処理することになる。&lt;br /&gt;　教育システムが他の機能システムとの関係をどのように処理しているのかを整理すると、次のようになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(1)経済システムとの関係&lt;br /&gt;　　普通教育と職業教育のどちらを重視するのかというパラドックスによって経済システムとの関係を処理&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(2)家族システムとの関係&lt;br /&gt;　　入学者の均質化（等しくない者を等しく扱うパラドックス）を用いて家族システムとの関係を処理&lt;br /&gt;　　機会均等という理念＋教育と選別との区別を用いて、パラドックスの解消が試みられる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(3)政治システムとの関係&lt;br /&gt;　従属性と独立性のパラドックスによって、政治システムとの関係を処理する。政治的な介入に対する自律性の要求／他方で、教育システムは条件整備のために集合的拘束力を持つ決定を必要とする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　→「（教師による集合的拘束力を持つ決定への）参加が多すぎも少なすぎもしないのが一番」（p.176）授業実践における（？）どっちつかずの妥協によって、従属性と独立性のパラドックスが緩和される&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(4)学術システムとの関係&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　教育の内容的真実性と実効性のパラドックスによって、学術システムとの関係を処理&lt;br /&gt;「教育が、頼りになる拠り所を伝えようとする一方、研究は、形づくることのできる未定の未来に賭ける。それは、解決する問題よりももっと多くの問題を抱えていく未来、知識が到底追いつけないほどの早さで無知が増大する未来である」（p.177）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　→cf．学校数学と数学との違い&lt;br /&gt;　　　　　（非ユークリッド幾何学が登場しているのに、学校ではユークリッド幾何学を教える）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　　→問題を未来に押しやることで、パラドックスを解決する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・教育システムに＜ゆらぎ＞をもたらす外部環境&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　機能システムは他のシステムに依存する際に、自らで処理可能なパラドックスの形式をとることで、&lt;br /&gt;　　環境システムとの関係をとり結ぶ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　→機能システムの分離によって、多中心的で不透明な社会が形成される&lt;br /&gt;　　　　　（プリコジンの言う＜ゆらぎ＞＜散逸構造＞に近い）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　教育システムにゆらぎをもたらす外部環境システムの最たるものが、マスメディア・システム。&lt;/p&gt;　&lt;br /&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;IV　教育システムへの、そして社会への＜組み込み＞（pp.181-183）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;諸機能システムの分離によって、もろもろの人格の社会への組み込みという課題が生じる。教育システムにおける人格の組み込みは、すべての子どもを就学させることによって果たされた（人格だけでなく、身体を組み込む必要があるという点で、教育システムは他のシステムにはない特殊性があった）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;V　教育システムの内部的分化（pp.183-185）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　機能システムの分離は、機能システム内のサブ・システムの分化を促す。教育システムの内部分化は、学級という単位によってなされる。ただし、学級による分化には「授業を個々の生徒の能力と関心に合わせることが、制限される」（p.185）という短所がある→この短所は、キャリアがリスク構造を持つ要因である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;VI　分離と＜自己記述＞（pp.186-187）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　機能システムが分離すると、そのシステム独自の視点から（自らが属する）社会を記述することが可能になる（cf．資本主義社会／産業社会／技術文明／情報社会などなどの社会の記述を授業で用いる）。教育システムの分出（による社会と自己の記述能力の増大）に伴い、＜教育によって社会を変えることができる＞という考察が登場する。古典的には、資本主義社会の改変、今日では、環境負荷の軽減のために教育が役立つのではないかという議論がある。&lt;br /&gt;　「教育システムは、（中略）＜成長途上の世代に働きかけることにより問題解決に寄与すべし＞という挑戦に答えていなかければならない。それは、教育システム自体の問題ではないのだが」（pp.186-187）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　←しかしながら、教育によって行為を強制することはできない。教育にできることは、「問題を具体的に、いわば「脚本」として上演し、いろいろな「見本」によって示してみせる」（p.187）ことで、別様な行為の可能性を開くことだけである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・ルーマン教育システム論の基盤：教育システムの分離によって、教育のシステム理論的記述が対象を見いだすための社会的な前提が整った。その意味で、本書の記述は、歴史的に条件づけられたものである（機能分化した社会が到来し、教育システムが分離したという条件ではじめて、教育をシステムとして記述することが可能となる：トートロジーにしか読めませんが。）&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-09-27T08:22:41+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/__5c8b.html">
<title> 	 『社会の教育システム』４章の要約メモ</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/__5c8b.html</link>
<description>　昨日の晩に、出張からもどりました。明日から数日間、遅めの夏休みをとって沖縄に帰...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　昨日の晩に、出張からもどりました。明日から数日間、遅めの夏休みをとって沖縄に帰省します（が、向こうでも仕事をしなければ。ううう。各方面にご迷惑をおかけしてすみません）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　第四章は非常に短い章ですが、ルーマンさんは教育システムにおける授業（という相互行為システム）の役割をかなり重視しているように思います。そのわりには、授業の中身の記述については禁欲的なのですよね。このへんをどう考えるのかが、ルーマンさんの理論の応用をめざす時の一つのポイントかもしれません。EM的な授業研究や教育学的な「授業実践」をめぐる議論（昨日のI先生の報告は、このラインの可能性を模索するものだと理解しました）と接合するのかしないのか、はてさて。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;第四章　相互行為システムとしての授業&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;I　相互行為の自己組織化による＜授業秩序＞の形成（pp.137-144）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育システムに授業という相互行為システムが組み込まれることによって、教育的コミュニケーションへの参加者は、「自分が知覚されていることを知覚する」（p.138）という自照的な知覚を促されるようになった。&lt;br /&gt;　授業という相互行為システムは心的システムによる多様な観察に開かれており、自己参照的な相互行為システムが実際のところ何を生み出しているのか把握することは不可能である。&lt;br /&gt;　とは言え、意図や計画の設定や教師の役割の確定を通じて、相互行為システムが外部を参照することは可能であり、授業という複雑なシステムは独特な紀律を必要としてもいる。教師と生徒の役割の差別化、学級やそこで用いられる時間割は、授業という相互行為システムの複雑性を特殊に縮減する役割を持っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・授業という相互行為システム必要とされる紀律&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(1)教師と生徒の相補的であるが非対称的な役割構造：役割は「割り当てられるもの」で選択できない（相互行為の進行や生徒の発言の機会は教師が統制する）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　(2)時空間の特殊な制約&lt;br /&gt;　　　（学級の割り当て、授業時間の区分→挿入時間と定期時間、出席簿などによる「人格」の管理）&lt;/p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&lt;p&gt;(3)諸人格が時空間を共にし、相互に観察しあう状況をつくる&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;II　＜型どおりの進行＞と＜偶然の波瀾＞（pp.144-147）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; 授業は型と偶然が一体化しているというパラドックスに教師を直面させる。パラドックスを解消するための教師の対処が、授業独自の秩序を生み出し教育システムの社会的な分離を基礎づけることになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　→授業のこうした特性は、長期に亘る集中と高い要求水準の職業教育を可能にする。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-09-24T13:12:51+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/post_85a5.html">
<title>『社会の教育システム』３章の要約メモ</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/post_85a5.html</link>
<description>　大阪出張中です…。練習不足でプレゼンがうまくゆきませんでした……。次回はもっと...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　大阪出張中です…。練習不足でプレゼンがうまくゆきませんでした……。次回はもっときちんと準備して、聞き苦しくない報告にします……。また、報告してもいいですか…　（スパムメール風余韻）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ということで（？）気を取り直してメモ書きをアップします。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;第三章　媒質と形式&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;I　＜媒質と形式＞の区別（pp.105-112）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育的な関与によってオートポイエーシス・システムを変化させることはいかにして可能か、という問いに答えるために、システム論は媒質／形式の区別を用いる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・媒質／形式の区別&lt;br /&gt;　媒質は緩やかな連結、形式は緊密な連結。この区別を用いることで、時間が捨象される（p.108）。「媒質と形式の区別自体が、意味という一般的な媒質にとっての一つの形式」（p.108）&lt;br /&gt;　　　→媒質／形式の例：言語と文、貨幣とその支払い、官職権力と官職による決定、素材と美的芸術など&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; →新しい形式のための新しい媒質の導入は、機能分化した社会システムの形成を促した。&lt;br /&gt;　&amp;nbsp; &amp;nbsp; 　→それでは、教育システムにとっての媒質は何か？（p.112）&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;II　教育の媒質としての＜子供＞（pp.112-119）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育システムの媒質は子供である。大人／子供の区別が導入され、＜未完成な子供＞という意味論が形成されることによって、教育システムは機能的に分化した社会システムとして分離するようになった。媒質としての子供は、「教育の実践活動においてはじめて必要とされ確かな背景として予定されもする一個の構成である（中略）＜媒質としての子供＞は、［じかにとらえられる］子供ではなく、教育者が＜子供は教育可能だ＞と信ずることができるための一個の社会的構成に他ならない」（p.118-119）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;III　新しい媒質としての＜経歴＞（pp.119-125）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育システムの分離と普遍化（ただし、当初は対象として一定年齢の子どもが想定されていた）に伴い、教育システムの媒質は＜子供＞から＜経歴＞に置き換えられる。経歴はそれ以前の経歴との結合のなかで固有の形式を獲得する。「経歴にはどれ一つ同じものはないが、誰もが、経歴という＜媒質＞が得たそれぞれの＜形式＞なのだ」（p.122）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・物語／近代的な小説の登場：媒質としての経歴の登場を示唆する出来事。&lt;br /&gt;　　　→主体概念の力が失われ、「人格は自分自身を学ばなければならないという観念」（p.124）が登場する&lt;br /&gt;→媒質としての経歴の登場は、近代社会の機能分化した諸システムが生み出す＜未来の不確かさ＞に向かう諸変化に対応するものである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;IV　経歴という媒質にとっての形式としての＜知識＞（p.125-131）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育システムにおいて、経歴という媒質の形式は知識である。知識の獲得を目的のための手段とする従来の教育学は、不確かな未来によって目的が定まらなくなった近代社会では妥当しなくなる。システム論は、知識を手段としてではなく、媒質／形式の区別の片方（形式）として位置づける。&lt;br /&gt;　機能的に分化したシステムは、それぞれ独自の知識概念を用いている。知識の真偽を問う学術システム、情報理解のために知識を用いるマスメディア・システムと異なり、教育システムにおける「知識はつねに個人の知識であり、その意味で、経歴にチャンスを与える形式、または、知識が欠ける場合にはチャンスを閉ざす形式である」（p.126）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・「教養」概念の再定式化&lt;br /&gt;　教育システムが個人に付与する知識は、余剰性（既知のことがら）／可変性（未知のことがら）という区別を行う形式である。「知識はかれらに、何がおきようと自力で切り抜けていけるという意識をもって、あえてなじみのない土地へ進出できるための装備を与えてくれる」（p.129）&lt;br /&gt;　→このような知識概念に従うと、教養は「顕示できる知識」と解することができる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・教育システムにおける経歴／知識図式の役割&lt;br /&gt;　　教育はその対象者にとるべき経歴を指定することはできない。「教育は＜媒質と形式＞の差異を手がかりとするしかない」（p.131）→生徒がどのような経歴を歩み、そのなかでいかなる知識を蓄積してきたのか、を把握することで、伝達可能／不能、より良い／より劣る　図式を用いたコミュニケーションが可能になるということ？&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-09-23T07:53:57+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/post_64f1.html">
<title>『社会の教育システム』２章の要約メモ</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/09/post_64f1.html</link>
<description>　『社会の教育システム』第二章の概要です。個人的には、（あえて）生徒を＜平凡なマ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　『社会の教育システム』第二章の概要です。個人的には、（あえて）生徒を＜平凡なマシーン＞として取り扱うことが、かれらの自己社会化を促進するという議論が興味深かったです。教育学的な議論で、「教え」と「学び」を対立的に捉える枠組みを乗り越える図式を提示しているような、していないような。「演技されたコンセンサス」の獲得という議論は、付け焼き刃でもいいので議論できるツールを獲得するという現代的な教養をめぐる議論とも通ずるような、そうでないような。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;p&gt;第二章　社会化と教育&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;Ⅰ　社会化における＜作動の閉鎖性＞と＜構造連結＞（pp.46-61）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「世代から世代への文化的価値の伝承」（p.55）という古典的な社会化論は、(1)社会化をする側とされる側とに構造的な非対称性を想定している、(2)伝承に成功した場合だけを社会化と捉える、(3)不確かさへの備えとして、規範遵守／個性的な自己意識の形成がありうるが、従来の社会化論では後者がうまく把握できない点で批判された。&lt;br /&gt;　パーソンズの「相互浸透」概念は、伝承理論を越える社会化の基礎づけとして有用であるが、行為の存立基盤を問うかれのシステム論は社会システムと心的システムとの峻別が不十分でないために、社会化が二つのシステムで別様な論理で引き受けられるという事態をうまく把握することができない。&lt;br /&gt;　閉鎖したシステムの構造連結・構造呼応という概念を用いることで、心的システムと社会システムとを峻別しつつ、両者が（社会システムから見たときには）「人格」を媒介に構造的に関係しあう様相を描くことができる。&lt;br /&gt;　→「社会化はつねに自己社会化」である／「社会化は、どんな社会的振舞いにも付いてまわる」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　→それでは、教育と社会化はどのような関係にあるのか？（次節へ）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;Ⅱ　＜教育する意図＞による教育の定義（pp.62-70）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育概念は、（従来の議論が試みてきたように）内容的に定義することができない（したとしても、別の立場から「それは教育的なのか？」と反駁される）。そこで、本書では、同語反復的な形式的定義を行う。社会システム論による教育の定義は、「相互行為において＜教育する意図＞を以て行われるコミュニケーション」（p.63）である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　「意図」による定義は、教育（意図的）／社会化（無意図的）という区別を行うことでもある。&lt;br /&gt;　　　→教育システムは、この区別を用いて、自己の論理にもとづくコミュニケーションを生起させる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・教育システムによる脱トートロジー化：＜教育する意図＞の内実を規定する（トートロジーの空疎さを隠蔽する）構造要因&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　(1)役割の非対称性&lt;br /&gt;　　　(2)善き意図（／善くない意図）という図式の使用&lt;br /&gt;　　　(3)相互作用システム（授業）の利用&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　→＜教育する意図＞による教育の定義は、システムのまとまりが内部にも外部にも見いだせないというパラドックスを生起させる。このパラドックスは、「システムをシステム自身の決定不能から解放する外部の参照によって、解消される」（p.70）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;Ⅲ　＜教育する意図＞による伝達行為（pp.70-71）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・システム論による「伝達」概念の再記述&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　＜教育する意図＞によって生じたパラドックスの解消の道筋の一つに、「知識と能力がまだない者にこれを伝達しようとする行為」（p.70）において、教育する意図を認識する方法がある（その背景には「素質」概念がある「まだない」ものを「ある」ものにするというパラドックス）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　→伝達可能／伝達不能　というコードによって教育システムが作動する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;Ⅳ　＜家父による教育＞から＜教師による授業＞へ（pp.71-74）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　＜教育する意図＞は、いかなる社会にも存在するが、近代社会の到来（機能的に分化する社会の登場）にともない、＜教育する意図＞はますます重視されることになった。その変化は、＜家父による教育＞から＜教師による授業＞へ、という図式で示すことができる。ここで言う「意図」は心的システムのありようとは無関係で、社会システムが分化するプロセスで機能する（社会的なコミュニケーション）シンボルである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・＜教育する意図＞が分出する背景：活版印刷の普及と、学ぶべき知識の量・複雑性の増大&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・教育意図の担い手の変化：家父→家庭教師→ラテン語学校・学舎や大学（の担い手である教師たち）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;→「教育者的意図とは、有り余るほどのコミュニケーション可能性を正当化できるような自律性を定式化したものである。だからこそ、こうなったいま、教育システムははじめて自己紀律を要請される」（p.73）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;Ⅴ　教育と＜選別＞（p.74-85）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　教育システムを他のシステムと分化させる＜善き意図＞は、教育と選別という「全く異なる二人の子」（p.74）を生み出した。教育論は選別を否定するが、選別は教育システムを階級的な秩序から切り離し、教育内の基準によって生徒を把握する手がかりをもたらす、すなわち、システム固有の記憶を形成する機能を有している。また、選別は、教育の対象となる者のキャリアを生み出す働きも持っている。これらを踏まえると、選別が教育システムに不可欠であることが明らかになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;・選別が教育システムで果たす役割（pp.79-80）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(1)教育を社会階層から切り離す（しかし、統計は良家の子どもが選別で成功するチャンスに恵まれることを明らかにしている）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(2)選別はシステムの記憶を形成する。そのことで教育システムは、選別結果以外の他の様々な情報を忘却することが可能となる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(3)上記の忘却は、生徒の人格に「別の人格になる可能性」を与える（p.80）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(4)選別のネットワークは、不確かさを生み出しつつ、評価決定」によってそれを一時的なものにする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(5)選別が決定である以上、別様な結果が生じる可能性は避けられないが、この不確かさは選別のプロセスを時間的に引き延ばすことによって軽減される。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(6)選別は、決定プロセスの不透明性を基盤に、結果の透明性を得ている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;・選別批判論への応答&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　選別＝権力行使／暴力行使と主張する論は、近代社会における教育システムの分離を見誤っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;・教育のキャリア形成機能&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　＜出自による社会的統合＞から＜キャリアによる社会的統合＞の変化は、教育システム単独の作用によってもたらされたのではなく、社会が機能分化することによってもたらされた。このことは、教育システムと経済システムにおけるキャリア形成が、（構造的に呼応しつつも）別様な論理によって行われる点からも明らかである。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;Ⅵ　＜パラドキシカルなコミュニケーション＞（pp.85-91）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育と選別の区別は、＜より良い／より劣る＞という二次的コード化をもたらした。このコードは、伝達可能／伝達不能という一次的コードを補完するものである。&lt;br /&gt;　教育における選別は、二次的コードを利用しながら、（成績）を決定し・比較するという二つの形式を統合する。選抜システムに複雑さをもたらすこうした作動が教育システムで生じる背景には、他の機能システムとことなり、教育システムではコード化とプログラミングが明確に区別されないという特殊な事情がある。&lt;br /&gt;　また、教育と選別の相互補完的な関係は、相互作用においては、＜パラドキシカルなコミュニケーション＞（教育的配慮と／（冷徹な？）成績符号の配分との分離・相克）をもたらすことになる。教育システムは、二つの相反するコミュニケーションを振動することによって、それぞれのコミュニケーションの欠陥を免れている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;Ⅶ　＜平凡でないマシーン＞の平凡化？（pp.91-97）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　＜教育する意図＞が＜正しく教育する意図＞を含意する場合、教育と選別の緊張関係を解消するために、教育システム（相互作用システムとしての授業）は、生徒を＜平凡なマシーン＞として取り扱う。教師が既知のことがらを生徒に質問するやりとりが、「平凡化が進んでいることをチェックする標準的な手続き」（p.93）である。&lt;br /&gt;　本来は平凡でないシステムである人間を平凡なマシーンとして取り扱う場合、かれらは自己組織化によってこれに対応し、あたかも平凡なマシーンのように振る舞うことを学習する。「教育のために編成された相互システムは、それ自体、社会化の作用をもつ」（p.95）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・平凡なマシーンと平凡でないマシーン&lt;br /&gt;　前者は一定のインプットに基づき、一定のアウトプットを生み出すマシーン、後者は自照性を有し、予見不可能な多様な反応を返すマシーン≒オートポイエーシス・システムである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・平凡化としての授業：IRE構造がその典型&lt;br /&gt;→平凡なマシーンとして取り扱うことが、平凡でないマシーンの自己社会化作用を刺激することにつながる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・「現状肯定的、機能主義的な議論」という批判への応答&lt;br /&gt;　　教育の社会化機能は、上記の批判を行う者達が想定するように、社会秩序の追認だけにとどまらない。&lt;br /&gt;　　「問題は何よりも、われわれは逸脱の文化をどれだけ手にしているのか、ということ」（p.97）&lt;/p&gt;　&lt;br /&gt;&lt;p&gt;&lt;strong&gt;Ⅷ　＜演技されたコンセンサス＞（pp.97-98）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　複雑な社会における教育の機能は、真の認識を得ることでも合意の調達でもなく、「他人の頭のなかで起こっていることを思い描く可能性を増大させる」（p.97）ことにあるのではないか。「どんなに不確かでも、それに続くコミュニケーションを排除せず、可能にする枠のなかにとどまること」（p.98）、すなわち「演技されたコンセンサス」は、諸社会システムが存続するために必要不可欠であり、教育はこうした事態が標準的でない状況においても可能になることを実現する。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-09-20T11:19:43+09:00</dc:date>
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<title>『社会の教育システム』１章の要約メモ</title>
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<description>　納期に追われているうちに、半年もブランクが空いてしまいました。サイトを閉鎖する...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　納期に追われているうちに、半年もブランクが空いてしまいました。サイトを閉鎖するのももったいないので、記事の内容の統一性にはこだわらず、更新できるときに更新するというやり方をとることにしました（同じようなことを何度も書きつつ、さぼっているような気がしないでもないですが）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ということで、久しぶりに、読書会のために作成したメモをアップします。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ニクラス・ルーマン『社会の教育システム』（村上淳一訳、東京大学出版会2004年）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第一章　人間と社会&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;I　社会理論的前提（pp.1-6）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ルーマンの社会システム理論の概要を理論的前提として提示（pp.2-6）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;(1)社会(ゲゼルシャフト)システムは社会的作動から形成される閉じたネットワークである。&lt;br /&gt;(2)社会(ゲゼルシャフト)システムを形成する作動はコミュニケーションである。&lt;br /&gt;(3) 近・現代社会システムは機能分化した社会システムによって構成される&lt;br /&gt;(4) 教育システムは、機能分化した社会システムの一つである。&lt;br /&gt;(5) 社会システムは自己参照／外部参照を区別することで自らを構成する。&lt;br /&gt;(6) 社会システムの作動─生成は、自らのあり方の不確かさを生みだす。&lt;br /&gt;(7) 教育システムにおける⑥の事態は、ミクロな多様性を生み出し、それを前提とする。&lt;br /&gt;(8) 社会システム（各社会システムと全体社会システム）は、意味という媒体に形式を与えることによって、システムが自ら生み出す不確かさを受けとめる[社会システムの基底的な構成要素は意味であることのパラフレーズ？]&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;II　＜人間本位主義的＞教育概念の陥穽（pp.6-14）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　教育をめぐる従来の議論が前提としていた「人間本位主義」を批判しシステム理論によって再記述することを提起&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・階層分化した社会の教育概念：貴族教育としての哲学／古代ギリシャの「育成」概念&lt;br /&gt;　　　→キリスト教の世界宗教化により、教育の営みが脱文脈化される&lt;br /&gt;　　　　→啓蒙主義・人間本位主義的な理念を基盤とした教育論が登場&lt;br /&gt;　　　　　→18世紀の末になると＜主体を啓発する＞という図式が強調される。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これらの図式は、社会構造の変化（cf．分業の進展など）が度外視され、まるごとの＜人間＞を前提している点で問題がある。伝統的な教育論は、人間概念からの脱却ではなく、「人間を類型化して捉える記述」（p.13）によってこの問題を隠蔽してきた（ブルデュー的な）教育システムの階級再生産機能に対する批判は、教育システムの用いる抽象化された概念のもつ政治性を明らかにしたが、「教育システムにおける差別化によって何が達成されるべきかを、明らかにするものではない」（p.12））&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　→「われわれは、人間の概念と社会の概念を明確に区別し、教育の社会的機能を検討する場を確保しなければならない」（p.14）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;III　人間における＜作動の閉鎖性＞と＜構造連結＞（pp.14-22）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;現代的なシステム理論の視座で「人間」を観察すると、閉鎖的に作動した諸システムが構造的に連結した非常に複雑な（諸）システムであることが明らかになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　・古典的な人間概念&lt;br /&gt;人間をひとつのまとまりとして把握（p.18）／社会は人間たちから成る（p.20）&lt;br /&gt;「魂」「精神」による創発性の叙述（心身二元論的な決定論問題の解決）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　・システム理論的による「人間」の把握&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; 人間は、構造的に連結した諸システムの総体→&lt;br /&gt;　&amp;nbsp; &amp;nbsp; 物理的な因果性に規定されつつも、不透明性と不定性を有したシステム（連関）&lt;br /&gt;「システムそのものが実現されるミクロ物理学、生化学等々のレヴェルでは決定論をとらざるをえないにもかかわらず、決定は不定性を生むというメカニズムが覆ることはない」（p.21）&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; 　　→人間は社会を構成する要素ではなく、社会システムの創発に必要な差異を&lt;br /&gt;　　　　　　　　生み出す複雑な（諸）システム。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;IV　コミュニケーションと＜人格＞概念（pp.22-36）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　社会システムは人間を＜人格＞という形式で取り扱う。「コミュニケーションへの人間の関与は、コミュニケーションのなかで、コミュニケーション自身の手段によってシンボル化されなければならない。そのシンボル化の形式を、われわれは「人格」と称しているのである」（pp.25-26）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　・社会的固有値としての人格（p.24）がコミュニケーションプロセスで果たす機能（p.26）&lt;br /&gt;　　　　①二重の不確定性の触媒機能　②人格が記憶を持つという前提の提供　③動機づけ図式の提供&lt;br /&gt;→これらの機能が実際に心的システムに備わっているかどうかは問題ではない。上記の「特徴が備わっているという想定が、コミュニケーションのプロセスにおいて、以後のコミュニケーションの前提として再生産されるだけで充分である」（p.34）／逸脱する場合は「病的なケース」として取り扱われる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　・教育の社会的機能（p.35）：人間の人格化&lt;br /&gt;「人間は、産み落とされる。人格は、社会化と教育によって成る。この違いを念頭に置くならば、教育の機能は＜人間の人格化＞にあるということが、すぐ判る」（p.35）／人格はコミュニケーションにおける通行章（p.36）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;V　コミュニケーションシステムとしての社会と＜教育＞（pp.36-41）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これまでの検討を踏まえると、社会を構成するのはコミュニケーションであり、人間ではないことが明らかになる。とは言え、教育が「人間本位主義」を捨てないのは、古典的な枠組みにとらわれているだけでなく、教育的なコミュニケーションが＜（個々の）人間を変える＞ことを目的としているためである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;VI　相互行為システムとしての授業（pp.41-46）&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　従来の教育論は、教育を「知識の伝達」と捉えていた。これらの議論で捨象されがちな点は、「教育が学校の仕事とされる限り、それは（中略）授業という相互行為状況で行われる」（p.42）という事実である。授業という相互行為システムを通じて、生徒が（後に述べるように自ら）変化すること、それを通じて「個々の人間に今後の人生の準備をさせること」が教育システムの社会的機能である。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-09-18T16:03:41+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/04/post_5e87.html">
<title>自分のためのメモ</title>
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<description>　ニクラス・ルーマン『社会の教育システム』（村上淳一訳、東京大学出版会、2005...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　ニクラス・ルーマン『社会の教育システム』（村上淳一訳、東京大学出版会、2005年）を再読。ルーマンさんはドイツを代表する社会学者で、社会をコミュニケーションによって構成されたシステム（正確には、コミュニケーションが遂行的に構成するシステム／環境の差異。うーん、不正確かも。）として捉える理論的な枠組みを提起したひとです。&lt;/p&gt;　&lt;p&gt;と書いても、「なんのことやら」と思う人がほとんどではないかと思います。まあ、自分のためのメモということで、ご勘弁を。この本では、教育の世界をシステム理論のことばで再記述することを通じて、教育学的な議論が見落としていた盲点が明らかにされています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「どうして教育の世界ではいつも「子ども」がキーワードになっているのだろう？　」「悪口を言われつつも、試験が無くならない理由はなぜだろう」「多くの人が、時にはまったく相反する主張をしながらも『教育の問題を解決しなきゃ』という点では一致してるのはどうして」、などなど、教育の世界の独特な性格を厳密に把握したいという人にはお勧めの本ですが、慣れるまでつらいかもしれません。教育する意図を感じられる訳注の多さも特徴です。以下は、自分のためのメモ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;・ルーマンは何を批判しているのか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(1)人間本意主義的教育概念&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　←「教育の機能は＜人間の人格化＞にある」（p.35）／「教育システムの機能は、もっぱら個々の人間に今後の人生の準備をさせること、つまり個々の人間の「経歴」に関わるのである」（p.46）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　(2)社会化・（文化の）伝承モデル&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　←「社会化はつねに自己社会化であって、文化の断片が心的システムに輸入される[たとえば伝統文化の学習が迫られる]ということではない」（p.61）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;・教育事象のシステム論的把握&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　＜教育する意図＞によるトートロジカルな教育の定義：パラドックスの展開（解消）&lt;br /&gt;　ａ）役割の非対称性（p.65）・善き意図とそうでない意図の区別・知覚の再帰性を伴う相互行為システム（授業）：社会的次元へと解消されたパラドックス&lt;br /&gt;　ｂ）伝達可能（＋）／伝達不能（ｰ)　という区別によって、「知識と能力がまだない者にこれを伝達」する：時間次元へと解消されたパラドックス（p.70）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;・教育評価としての選別：教育と選別の相互循環&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　「＜善き意図＞は、全く異なる二人の子を産んだ。教育と選別である」（p.74）&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; →選別はより良い／より劣るという二次的コードを生み出す。伝達可能／伝達不能という一次的コード化を補完する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「教育そのものは＜伝達可能＞／＜伝達不能＞というコードによってのみ評価されるが、これは、教育の成果を評価するための手がかりを与えない。そこで、この一次的コード化を補完するのが、伝達が成果を挙げたか否かを確認するための事後的手続き、すなわち＜より良い＞／＜より劣る＞のコードによる判断なのである」（p.87）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　★相対評価と到達度評価は、良／否コードが作動する上で呼び出される（コードと未分化な）プログラムと把握することができる？　コードの二値性は到達度評価のほうがより明確。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　★事象次元に解消されたパラドックスは評価と関係しているのか？　あるいは、教育システムにおける媒質／形式図式の形式の側、すわわち個人の獲得した知識の獲得を、事象次元で解消＝展開されたパラドックスとみて良いのか？　でも、知識は「諸個人とその環境との、社会的に是認された関係」（p.127）とあるので、ここで事象次元を持ち出すのはおかしい？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;・教育システムの特殊性：コード／プログラムが未分化、シンボリックに一般化されたメディアの不在&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「教育システムのこうした特殊性は、他のもろもろの機能システムとは違って（中略）コード化とプログラミングが明確に区別されないということにも示される」（p.88）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「教育は、＜未完成な子供＞という意味論（中略）によって、いわばみずからのゲームを定義づける。したがって、教育学が成長途上の者（中略）と学校を念頭に置いて自己の任務を考える限り、教育学にとっては子供が教育の媒質なのである」（p.116）&lt;br /&gt;　→メディアとしての子ども。教育システムの分離（分出）が進行すると、子どもメディアが、経歴（ライフコース）メディアに置き換えられる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「媒質として機能する子供の観念が二〇世紀中に[新しい媒質として機能する]＜経歴＞[広い意味でのキャリア]という観念によって置き換えられたことを示す材料は、たくさんある」（p.120）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; →教育システムの媒質（メーディウム・メディア）における形式（フォルム）は（教育的なコミュニケーションによって構成される）知識。「学術は、吟味された知識、虚偽ではないかとテストされた知識だけを、承認する。マスメディアは、もっぱら情報を理解するための前提として、知識を運ぶ。教育システムにとって、知識はつねに個人の知識であり、その意味で、経歴にチャンスを与える形式、または、知識が欠ける場合はチャンスを閉ざす形式である」（p.126)　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;・ルーマンによる移行過程の（教育システムに準拠した）把握：教育・個人（人格？）・社会の関係&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「教育は、とるべき経歴を指定することができない。（中略）教育は、＜媒質と形式＞の差異を手がかりとするしかないのである。教育は、確かに、特定の職業（略）のための著しく特殊化された職業教育を提供することができ、そうした職業教育なしにはありえないさまざまの可能性に満ちた経歴への道を開くことができる。しかし、それは、将来の振る舞いを決定するという形でなされるのではない。可能性に満ちた経歴への道は、ある特定の振舞いが要請された場合その要請にまずは自信をもって応えられる知識を備えることによってのみ、開かれる。それは、ある状況における振舞いにとって意味のあるさまざまな情報を、その都度獲得できるという自信である」（p.131)&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-04-03T10:33:48+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/03/post_1625.html">
<title>変わっててもいいじゃん</title>
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<description>　このところ「最近の若者は…」の後には否定的な言辞が続くのが常だ（予断）。だいた...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　このところ「最近の若者は…」の後には否定的な言辞が続くのが常だ（予断）。だいたい世間の大人たちが、年少世代を「最近の若者」とひとくくりにしてしまう点が問題である（憶測）。それだけならまだしも、限定された範囲で見聞きしたことや大上段に振りかぶった議論の影響を受けて、自分たちとの違いをことさらに強調し、若者のすべてを「悪しき存在」として断罪するのは心が病んでいるとしか思えない（誇張）。若者に対するバッシングを諫める議論もあるけれど、だれもそんなことを聞いちゃいやしない。まさにそのことこそ、国際化・情報化・高度資本主義化・少子高齢化・脳のトレーニングに役立つゲーム脳化が急速に進む我が国の社会病理ではないのか（紋切型）。ああ、嘆かわしい…。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　でもよく考えてみると、僕たちはさしたる根拠もなしに、若者を叩くことに躍起になっているだけじゃないの？&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　浅野智彦編著『検証・若者の変貌』（勁草書房、2006年）は、1992年と2002年に杉並区と神戸市で実施された二つの調査を比較検討することで、「社会学的なやり方で今日の若者の像を描き直し（中略）九〇年代初頭から一〇年の間に日本の若者がどのように変化したのかを検討」する（p.１）ことを試みた本である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　編者の浅野さんによれば、90年代以降の僕らの社会は、日本経済だけではなく、若者論の「失われた十年」でもあった。というのも、実態とのズレを含みながら、まがりなりにも若者の可能性と問題点の両方に目配りをしていたそれ以前の議論と異なり、90年代の若者論は「否定的な色彩に塗り込められ」ており、「世代の持つ特徴がことごとくネガティヴなもの」（p.４）とされているからである。こうしたわかりやすいが一面的な議論には、「若者が彼ら自身の生をよりよいものにしていくための、そして彼らが社会をよりよいものに変えていくための種子」（p.６）を見落とす危険性があるのではないか。若者に生じた変化の肯定面や可能性をきちんと把握せず、問題点をあげつらうだけでよいのか。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　このような問題意識を背景に、本書では、「音楽生活、メディア利用、友人関係、自己意識、社会意識」（p.9)という五つの視角が設定され、これらの点について人々が抱いている若者のネガティブ・イメージが実際にそうなのかどうかが検証されている。人間関係の希薄化、モラルの解体、自己愛の肥大などなど、若者バッシングの根拠とされている特徴を裏付けるどころか、それらと相反する・あるいはこうした単純な図式では把握できない調査結果が提示されているのを見ると、多くの人が「常識」だと考えていることがらが、いかに実態と乖離した空論なのかがよく分かる。個人的には、若者たちの友人関係、アイデンティティ、道徳・規範意識を検討した四章〜六章の議論と編者の浅野さんによる終章のまとめが興味深かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　当然のことながら、社会調査データや公式統計など、一定の手続きを踏まえれば誰でも検証が可能な資料を用いて「若者バッシング」に反論する本は同書だけではない。ただ、この本の面白いところは、近年の若者が「よい意味でも悪い意味でもあまり変わっていない」（p.134）ことを指摘しつつも、否定的だとみなされていることがらを含めて、若者やかれらを取り巻く世界に変化が生じていることを率直に認めている点にある。問題は「変化しているその方向が人々によってそうであると信じられているようなものとは異なっている可能性がある」（p.235）ことにある。例えば、若者を論難する人々に「人間関係の希薄化」と信じられていることがらは、「希薄化というよりもある種の濃密化」であり、「多チャンネル化し、状況志向を強めながらその内部で独特の繊細な感受性を育んでいる」（pp.253-236）のが実態ではないのか。若者に対する「真摯な批判は徹底した理解を要求する」（p.256）というスタンスに大いに共感した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　なんだか堅い感じになってしまいましたが、統計的な分析手法を解説したコラムが各章の末尾に掲載されるなど、一般の読者に配慮したつくりの読みやすい本です。若者のことが気になる人におすすめします。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-03-07T22:34:53+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/03/post_e3a5.html">
<title>あなたって、そんな人だったの？</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/03/post_e3a5.html</link>
<description>　しばらく連絡を取っていない友達にメールを送る。よく一緒につるんでいたころの昔の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　しばらく連絡を取っていない友達にメールを送る。よく一緒につるんでいたころの昔のあれこれを思い浮かべながら書いた文章に返事がくるまでのあいだ、どこか落ち着かない気持ちになる。僕はいまでもきみと気持ちが通じ合っているように考えているんだけど、きみはそう思っているのだろうか？　　メールに書いた過去のエピソードに登場するきみや僕の振る舞い、そこからうかがえるそれぞれの人となりは、もしかすると僕の勝手な思いこみが生み出した幻想に過ぎないのかもしれない。&lt;br /&gt;
　そんなことをぼんやりと考えながら受信メールのチェックを繰り返していると、きみからの返事が届いていることに気づく。…うん、きみはやっぱり変っていないようだ。このめまぐるしく変化する世知辛い世の中で、僕らはなんとか友情を維持しているらしい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　私が他の誰でもなく、この私であること──自己アイデンティティを確認するためには、自分自身に「私をめぐる物語」を語るだけではなく、その物語にに耳を傾ける他者の存在が必要である。私たちは、お互いに「自分らしさ」を確認しあうなかで、今日も私でいつづけることができる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　でも、「私は私だ」という言明が、内容を欠いた空疎な同語反復であることからも分かるように、いまの私がこうである理由はどこにもないし、いまこの瞬間から別様の「私」を生きる可能性を捨て去ることはできない。けれども、普段の私たちは、そのような「自己の偶有性」に思いをはせることもなく、あたりまえに「私」を生きている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この当たり前の営みが、「私」の存在を認めてくれる他者、あるいは私とは一見関係がないように見えるよそ者に対する暴力を前提としていたら？　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　天田城介さんの『＜老い衰えてゆくこと＞の社会学』（多賀出版、2003年）は、高齢者介護の現場に身を置きつつ上記の問いを掘り下げ、「自己」を保持してゆくことをめぐる政治を描き出し、自らについて語ることの困難に直面した人々──とりわけ、老い衰えてゆく人々やかれらの家族、介護の現場で働く人々──それぞれについてのケアの可能性と限界を明らかにした労作である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　天田さんは、特別養護老人ホームの「痴呆専門棟」、在宅でケアサービスを利用する家族介護者、夫婦のどちらかが＜老い衰えた＞配偶者を介護する「高齢夫婦介護」の現場に足を運び、丹念な聞き取りや観察を積み重ねる。そこから明らかになることは、全人生を通じて、私が私でありつづけることを強制されてしまう社会の息苦しさである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　医療制度によって生み出され、また制度自体の存続を支える「痴呆性老人」という概念は、自立した元気な高齢者というポジティブなイメージが自らの輝きを維持するために要請した＜他者＞ではないのか？　「痴呆」と呼ばれる出来事によって、「その人らしさ」が失われてゆくようにみえる変化は、実際のところ、「その人」と共に人生を歩んできた私の「私らしさ」に対するこだわりが生み出した幻想で、その幻想こそが、あなたと私の関係を苦しめているのではないか？　これまでの私やあなたの人生を支えてきた社会的な役割、例えば「妻であること」「夫であること」は、＜老い衰えてゆく＞プロセスのなかで、逆に私─たちの間柄を閉塞させる役割を果たしてしまっているのではないか？　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ふだんは語られることのない（あるいは聞き取られることのない）当事者たちの物語に耳を傾けることで、僕たちが（漠然と）考えていた「高齢者の世界」が浅薄な幻想に過ぎなかったことが明らかにされるとともに、僕たちがひとしく要請されている、「アイデンティティを維持せよ」という課題の切実さと、それが＜他者＞の排除をもたらす危険性が指摘される。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　６００頁に近い大部な書物（そのこともあってお値段もべらぼうです）なので、すべての内容を紹介することができないが、この本の特に優れたところは、高齢者介護というアクチュアルな問題を論じつつ、近代以降の社会と個人との関係はどのようなもので、それはこの先どのように変わりうるのかという社会理論上の問いに対しても著者なりの明確な回答を示している点である（さらに、高齢者介護の具体的なあり方について提言している点もすごいです）。えーと、その回答については、実際に本書を手にとってみてください。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　当然ながら、社会の秩序（それは私たちが望んでいることでもある）を維持するために排除される（かもしれない）＜他者＞は、「老い衰えてゆく」人たちだけではない。本書の末尾でも明言されているように、当事者ではないよそ者がことがらを観察し、記述・分析することのいかがわしさや暴力性を自覚しつつ、自らについて語ることが難しい状況を生きている多数の人々の声に耳を傾ける仕事が、教育の世界でも求められているのではないだろうか（と書くと大仰なものいいになってしまい、それはそれで問題があるのですが）。よく分からなかった人たち／これまで分かっているつもりだった人たちとの出会いを通じて、今までそうでしかあり得ないと思っていた私─たちの存在の自明性を問い直し、別様な姿へと変えること。本書はこうした「ささやかだけど、役にたつ」実践のすすめでもあります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-03-02T18:00:04+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/02/post_14fd.html">
<title>面白かった本／面白そうな本</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2006/02/post_14fd.html</link>
<description>　季刊状態のこのサイト、忙しさを言い訳に更新をすっかりさぼっていました。他の人の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　季刊状態のこのサイト、忙しさを言い訳に更新をすっかりさぼっていました。他の人のブログをみているだけで幸せ…という気持ちが強くなってきたので、店じまいしようかとも思うのですが、でもまあせっかくなので、しばらくは備忘録的に使おうかなと気を取り直しました。自分のためのメモを公開してどうするのという気もするのですが、もともと訪問者も少ないので、ゆるい感じで続けることにしました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　というわけで、最近読んだなかで面白かった本と、これから読もうかなと考えている本のご紹介です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;○最近（といっても幅がありますが）読んで面白かった本&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　■稲葉振一郎『「資本」論』ちくま新書、2005年&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　…『経済学という教養』（東洋経済新報社、2004）とセットで読みました。（経済）社会のエコロジカルな条件が観察者によって別様に把握されている／されうること（そのことによって、経済をめぐる問いの最適解が変化すること）、エコロジカルな条件の形成自体が経路依存性を有することの指摘が印象に残り、社会をモデル化する際の思考法の幅が広がりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
　■本田由紀、内藤朝雄、後藤和智『「ニート」って言うな！』光文社新書、2006年&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　…本のなかでも明記されているが、本田さんと内藤さんの「(学校）教育」概念の違いが興味深かった。教育システムの抑圧性の指摘とその処方箋に関する内藤さんの議論は、イリイチの反学校論の読み方（ラディカルな批判を鏡にした学校制度の精確な把握）と同じように理解すると良いのかも。&lt;br /&gt;
　「ひきこもり」論とニート論を峻別せよという指摘はその通りだと思うし、「不活発層」と「不安定層」を混同せずに、別々の対応策を考えるべきという意見にも完全に同意するのだけれど、他方で、両者をつらぬく共通点を、現在のニート論のように個人責任論・心理主義的な把握図式とは違うかたちで考える必要もあるのではないか、という気もする。ニート論（「ニート」ではなく別のカテゴリーを使った方が良いかもしれない）と接合することで、ともすれば心理学・精神医学のフレームで理解されがちな、（俗流？）ひきこもり問題を、「就労問題」（働かないことを指弾する文脈ではなく、職業世界とどのようにつきあってゆくのかをめぐる諸問題）として捉える視点が浮上し、そこにはそれなりのメリットがあるようにも思う（それは「ニート利権」に過ぎないのかもしれないけれど）。その意味では、佐藤洋作・平塚眞樹編著『ニート・フリーターと学力』明石書店、2005は、「不活発層」と「不安定層」の両者を射程にいれた「ニート・フリーター」論を展開している点で興味深い。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
　■本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』ＮＴＴ出版、2005年&lt;br /&gt;
　…能力主義をめぐる日本社会の新しい動きを、議論の足場となるような実証的なデータを示しながら新しい枠組みで論じようとしていいて、入手しうるデータと諸研究の蓄積に裏付けられた社会学的な概念を総動員して現在を語ることの難しさとおもしろさ、何よりも筆者の社会的な使命感を感じさせられた。ただ、本書でいうところの「ポスト近代型能力」は、日本型の能力主義で要請された柔軟性と重なる点が多いようにも思えて（p.22の表で言えば、「近代型能力」と「ポスト近代型能力」の間に、「日本型能力主義で要請されていた能力」というものがあるような気がする。一定程度の創造性と協調性）、その異同がどうなっているのかが気になった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;br /&gt;
　■山田浩之『マンガが語る教師像』昭和堂、2004年&lt;br /&gt;
　…マンガ表現論として読むと違和感を感じるかもしれないが、教育社会学の領域における教師研究の知見を理解する（これが本書の目的だと思うが）には最適の本。あらためて気がついたことも多数ありました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
　■萱野稔人『国家とは何か』以文社、2005年&lt;br /&gt;
　…国家というものの根強さと手強さについて、あらためて考えさせられることが多い本でした。「富の徴収」と「暴力の組織化」という生々しい身も蓋もない運動のもとで国家が存立しているのだ、と言われるとそうかもしれないと思う自分は単純なのだろうか。社会をある種の物理的な力の相から描き出す枠組みと、構築主義的な社会把握の両方にひかれるのですが、この二つはどうつなげば良いのかしらん。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　○面白そうな本&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　■天田城介『＜老い衰えゆくこと＞の社会学』多賀出版、2003年、『老い衰えゆく自己の／と自由』ハーベスト社、2004年。&lt;br /&gt;
　　前者は半分くらい読んだところですが、理論的と実証研究の組み合わせが絶妙で、勉強になります。「再帰的エイジング」という問題設定は、不登校やひきこもりをめぐる問題を考えるときのヒントになりそう。ライフコースの再帰性の高まりを、知識の生産・配分・受容という枠組みで考えるとどうなるのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　■藤田弘夫・浦野正樹編『都市社会とリスク』東信堂、2005年…シリーズ「社会学のアクチュアリティ：批判と創造」のひとつ。中川清さんの「都市生活の展開・変容とリスク」が特におもしろそうです。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　力つきたので、このへんで。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2006-02-13T17:40:39+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2005/11/post_b5b8.html">
<title>ひとこと感想『下流社会』</title>
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<description>　こんにちは。まとまった文章を書こうとすると、更新が滞ったままになりそうなので、...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　こんにちは。まとまった文章を書こうとすると、更新が滞ったままになりそうなので、あまり考えずに読後感を書くことにします（こんな記事ばっかりになりそうな）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　三浦展『下流社会』（光文社新書、2005年）。ベストセラーとしてあちこちで言及されている本なので、内容については触れませんが、ネーミングの秀逸さ、図式のわかりやすさが売りの本です。ただ、この本を読むときに注意したいのは、所属する階層意識をもとに、「下流」の操作的定義がなされているにも関わらず、あたかも共通する社会経済的な属性を持つ集団であるかのようにして議論が展開している箇所が見られることだと思います（もちろん、筆者はそのことを自覚しているわけですが、誤読されかねない表現が多い）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん、階層所属意識そのものを議論することは重要ですし、意識と社会経済的な属性の間には対応関係があることも確かなのですが、階層意識論が、実体的な階層をめぐる議論と混同されるとかえって問題の所在が見えなくなってしまうような気がしました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それから、統計データやインタビューをもとに、いくつかの「典型」が描かれる際に、「下流」に属する集団はみな同じような特性を持つかのように描かれている点にも留意する必要があるように思いました（もちろんそれが「典型」の果たす機能ですが）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　と、書いているうちに一言ではなくなってきたのでこのへんにしますが、こうした点を差し引いて読む必要があるとしても、「階層の二極化」（が進行しているかどうかは、今年実施されているＳＳＭ調査の結果を待つ必要がありますが）が人々の社会認識に与える影響を探るためのさまざまな論点が示されている点では、学ぶ点が多い本です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2005-11-23T17:31:38+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2005/10/post_4aea.html">
<title>ほとんど開店休業中ですが</title>
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<description>　お久しぶりです。じぶんの処理能力を超えた課題に忙殺されて いるうちに、かなり間...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　お久しぶりです。じぶんの処理能力を超えた課題に忙殺されて&lt;br /&gt;
いるうちに、かなり間があいてしまいました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このまま風化するのも本意ではないので、もう少ししたら久しぶ&lt;br /&gt;
りにまともに更新しようかと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とりあえず、最近読んでおもしろかった本のタイトルだけをならべ&lt;br /&gt;
てお茶をにごします。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
　○最近読んでおもしろかった本・あれこれ&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　　佐藤卓己『八月十五日の神話』ちくま新書、2005年&lt;br /&gt;
　　　&lt;br /&gt;
　　　八月十五日に焦点を当てた「終戦報道」がいつ頃から&lt;br /&gt;
　　　登場したのか、を丹念に検討することで、「戦後」をめ&lt;br /&gt;
　　　ぐる集合的記憶の盲点を指摘した本。手堅い歴史研究の&lt;br /&gt;
　　　手業と、メディア論的なアプローチのおもしろさの両方を&lt;br /&gt;
　　　楽しむことができます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　森岡孝二『働き過ぎの時代』岩波新書、2005年&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　現代の日本で、働き方の分極化を伴いつつ労働の過密化が進行している&lt;br /&gt;
　　ことを論じた著。読んでいて身につまされました（泣）。ドーアさんの&lt;br /&gt;
　　『働くということ』中公新書とあわせて読むとよいかも。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
　　広田照幸『≪愛国心≫のゆくえ』世織書房、2005年&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　右翼的・左翼的な陣営の論争とは違う切り口で、教育基本法改正問題を&lt;br /&gt;
　　論じた本。わたしたちはどのように望ましい社会をデザインすることができる&lt;br /&gt;
　　のか、そのなかで教育はどのような役割を果たすのか、といった広い射程の&lt;br /&gt;
　　なかで、教育基本法の改正がもたらすであろう諸問題を指摘している。&lt;br /&gt;
　　バランス感覚の良さと、原理的・抽象的な学問の概念を現実の分析に生かす&lt;br /&gt;
　　際の鮮やかな手つきは、広田さんならではである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
　　西林克彦『わかったつもり』光文社新書、2005年&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　「無知の知」を認知心理学の言葉で整理するとこうなるのか、と感心した。&lt;br /&gt;
　　私たちは、テキストの言外の意味をくみ出すために「文脈」の力を用いている&lt;br /&gt;
　　のだが、「わかる」の手助けとなるはずの文脈が、「わかったつもり」の&lt;br /&gt;
　　状態に私たちをつなぎ止め、逆に深い理解を妨げてしまうことがあることを、&lt;br /&gt;
　　心理学的な実験の手法を通じて明らかにしている。&lt;br /&gt;
　　　個人的には「わかったつもり」にもいくつかのパターンがあることが説得&lt;br /&gt;
　　的に示されている点が興味深かった、と書くと「おまえはこの本の内容を&lt;br /&gt;
　　『わかったつもり』だけど、それってホントなの？」とつっこみを受けそうな本。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
　　以前のペースが戻るまではしばらくかかると思いますが、気長にお待ちくださいませ。&lt;br /&gt;
　（誰も待ってないかもしれませんが）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>ebony</dc:creator>
<dc:date>2005-10-02T20:05:08+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2005/07/post_6883.html">
<title>地元で生きる、ということ。</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2005/07/post_6883.html</link>
<description>　お久しぶりです（誰に向かって言っているのやら）。最近、忙しさと夏風邪にやられて...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　お久しぶりです（誰に向かって言っているのやら）。最近、忙しさと夏風邪にやられて更新が滞っていましたが、感想と励ましのメールをいただき、重い腰をあげることにしました（単純ですね）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それはさておき、少しだけじぶんの昔話をさせてください。僕は地方の出身で、学生時代を東京で過ごしていたのですが、上京してしばらくのあいだ、出身県関連の財団が運営していた寮に住んでました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そこは県のカラーがむちゃくちゃ濃い寮で、休憩室のテーブルには寮生の実家から送られてきた県産品のおすそわけが（ほぼ）常備され、ここに入った者は、我が県のシンボルともいうべき伝統芸能を習得しなければならない、という暗黙のルールまであったのでした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　風呂・トイレ共有、掃除当番あり、２食昼寝つき・格安家賃・飲み会多数のこの寮、地方から身一つで花の都・大東京にやってきた僕にとっては、かなり居心地のよいところでした。しかし、残念なことに通っている学校から遠く、電車通学に嫌気がさして半年くらいで引っ越すことに。なかば仮住まいといった感じでしたが、そこで遭遇した人々はいまでも印象に残っています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　吉川徹さんの『学歴社会のローカル・トラック』世界思想社、2001年を読んだときに、まっさきに思い浮かんだのが、この寮での生活でした。地方からはるばる上京してきた寮生が、身を寄せ合って（というにはあまりにも騒々しい生活でしたが）一つ屋根の下で過ごす。東京の大学で学び、あれこれの経験を積んだあと、再び地元に帰ってゆく。ああ、そうか、あの寮で形成される過剰なまでの地元意識は、この本で言うところの「ローカル・トラック」の制御を試みる戦略がもたらしたものかもしれないな。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　と、そんなことを書いても、同書を読んだことがない人は何のことだか分からないと思うので、ちょっとだけ本文を引用してみよう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;　「ローカル・トラックとは、それぞれの地方の出身者が、アカデミックな進路選択とは別次元のものとして、自らの地域移動について選択してゆく進路の流れである」（p.223）&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　吉川さんは、１９９２年度に島根県の山間部に位置する県立高校・国公立進学志望者クラスを卒業した生徒を対象にした調査を行い、かれらが１８歳から24歳までの６年間をどのように過ごしたのかを、質問紙を用いたパネル調査と、ライフヒストリー・インタビューの手法を用いて分析している。その結果浮かび上がってきたのが、ある固有のパターンを有した地域移動のあり方である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　地元に留まる／都市に向かうかどうか。いつ、どのようなタイミングで移動を行うのか。吉川さんによれば、こうした一見すると個人の選択に委ねられている出来事が、地方の教育県・島根においては、様々な制度的な仕組みによってコントロールされているという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そのなかでも、特に強調されていたのは、地元の高校（の進学クラス）─県内の国公立大というルートに教育資源を集中し、地域で役立つ「実学」的な学びへと生徒を水路づける戦略である。こうした仕組みによって産み出された経路が、「県内周流型」と名付けられたローカル・トラックである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　「本書においては、ローカル・トラックの本流となっていたのは、県内郡部の高校で、『嫡出』エリートとして育てられ、県内のエリート職にまっすぐ向かう高等教育を県内で受け、実際に県内職を移動してゆく人材となる経路、すなわち県内周流である。この類型の若者たちは、大学入試の難易度ランク一辺倒の単純な判断ではなく、例えば県内の地元国公立大学に進学し、そのまま県内でで初職につくという地域移動のコース優先の判断で進路を決めていった集団である。」（p.223）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　こうした「地方のエリート」として地元かいわいで生活する生徒に加え、大学進学のために一度県外に移動し、その後再び地元に帰ってくる「Ｊターン型」（「Ｊ」の含意は、生まれ育った郡部に戻ることはないが、県内で就職していることを表現している）もまた、広い意味ではこの種の「県内周流」型のローカル・トラックに含まれる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「他方、県外に流出して一流大学の学校歴を得ながらも、卒業と同時に県内に戻る経路を取るＪターン型についても、全国で通用する一流大学の学校歴を得ながらも、県外の労働市場には目を向けず、県内周流の経路に戻ってくるという、ノン・メリトクラティックな意志決定を指摘できる」（p.224）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん、進学クラスを卒業した生徒は必ず「県内周流」トラックに沿った人生行路を歩むわけではない。高等教育を受けた後も都市に定住するもの、あるいは逆に、自分の生まれた場所に戻り、そこで働く「Ｕターン」組と、当然ながら、同じクラスで過ごした生徒たちの卒業後の進路はさまざまで、「本流」以外のコースをたどった人も多い。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　移動の経路だけでなく、かれらがどのように自分の今の生活を形成してきたのか、その模索のありように目を向けると、これはもう、一人一人でまったく異なるライフヒストリーが展開することになる。「漂流記（ライフヒストリー）」と題した本書の第二部では、卒業した生徒たちのその後の６年間について、個別の聞き取りの成果が提示されており、場所こそ違うがほぼ同じ世代に属する地方出身者の僕にとっては、こちらの具体的な叙述が実に興味深く、魅力的だった。そうか、みんなはそんな風に過ごしていたのか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この本で強調されているのは、かつて「村を捨てる学力」という言葉で警告されたような、アカデミックな学業達成を通じた（あるいはその獲得をめざした）地方から都市への移動とは違う論理が、進路選択の場で作用しているという事実である。その固有の力学を把握するために考案された分析概念が「ローカル・トラック」なのである。ただし、ローカル・トラックの本流に位置するかどうかを決めるのは、結局のところ学業達成である。本書ではこのあたりの関係の整理がやや不十分で、そこがちょっと惜しいところかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さらに、ここまで書いているうちに、「地元」や「地方」というもののあり方は、この本で描かれたような県内エリートたちにとってのもの以外にもさまざまであることに気づく。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　たとえば、首都圏で活動するストリート・ダンサーについて研究した新谷周平さんの論文のなかで指摘されている、「地元つながり文化」の存在がある。ここで言う「地元つながり文化」とは、出身中学やその近隣中学の先輩後輩関係を基盤としたサブカルチャーのことを意味するが、そこで時間・場所・金銭の共有を特徴とする原始共同体的な関係を支える「地元」の含意は、たぶん、吉川さんがインタビューを行った人々のそれとはまったく違うものだろう（新谷周平「ストリート・ダンスからフリーターへ」『教育社会学研究』第71集、2002年）。こうしたもう一つの「地元」の姿は、首都圏の若者だけではなく、地方で生きる若者たちにも共有されているものではないだろうか。異なる社会層による多様な地域・地元像を把握する、そのような続編を期待するのは僕だけであるまい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　地方で生きてゆくこと、地方から出て、別の土地で暮らすこと。あるいは再び生まれた場所へ戻ってゆくこと。多くの人が経験するこうした出来事に、社会的な属性がどのような影響を及ぼしているのか。ある意味で都市で生きることの裏返しでもある地方の若者の生活について、いろんなことを考えさせられる本です。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

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<dc:date>2005-07-15T20:33:01+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2005/05/post_e151.html">
<title>本田由紀さん『若者と仕事』のメモ</title>
<link>http://ebony.cocolog-nifty.com/catnapper/2005/05/post_e151.html</link>
<description>　じぶんのためのメモです。</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　じぶんのためのメモです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;○本田さんの議論に感じた違和感&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　前回紹介した今井さんの本を読んで感じたことなのだけれど、本田さんの議論は、今井さんの枠組みで言えば、教育の直接性、あるいは透明なメディアを前提にした（あるいはそれをめざした）ものになっているような気がする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　特に、職業的なレリバンスを強めたかたちで学校で伝えられる知識・技術を再編しようという提言などを見ていると、そのようなことを感じてしまう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だから良い、悪いということではないのだけれど、教育的コミュニケーションのもつ不確実性を可能な限り縮減しようという意図がもつ逆機能はないのだろうか、という疑問がどうしても残ってしまう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これはミネルヴァ書房の『教育評価を考える』（だっけ？　うろ覚えです）に収録された教育評価に関する論文を見たときにも感じたこと。本田さんは、ルーマンの社会システム理論を、自らの研究の理論的な枠組みの一つに位置づけているので、本人は否定するかもしれない。しかし、彼女の議論には、透明なコミュニケーションへの欲望が伏在している感じがする、のは僕の理解不足なのだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もう少しこの点について考えてみる必要があるだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>じぶんのためのメモ</dc:subject>

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<dc:date>2005-05-30T22:53:09+09:00</dc:date>
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